句集 大風呂敷 山田耕司
桐 生
空は晴れて自転車をみがく布はないのだ
空を青み梅の林の針の影
我死して蝉が語り出す真実
浴衣寝や蝶に手相をゑがかせて
桐生桐生と呪へて逃げる桐生かな
夕の菜ならび買ふ 地獄絵の帰り
径 小径 怪しきまでの緋の葉脈
草深しまた人前で薬飲む
鷹の羽落ちてゐる庭見つからず
隅田川語り出すものみな弱し
蝶二匹超えにし杉を知らざるや
多佳子忌と知らず遠雷録音す
雷が落ちてカレーの匂ひかな
水無月や赤い表紙の「チュチェ思想」
夏休み蟹座の友の胸囲かな
英単語ひとつ忘れて海へ行く
かかと高き木霊をわれは蛍と呼ぶ
河童忌やわが一髪をなめてみる
勲章を磨かず納屋の宇宙論
朝刊にはさまれ来るは母の櫛
櫛埋めし畑に生ふる罌粟あまた
薔薇こぼつ恥辱ハイネの行間に
麦畑ひばり見ること避けられず
記憶では狗に食はるる女かな
少 年 兵
少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ
火の記憶ありて花撃つバナナン大将
ドラキュラを待つ身に雪の弥生かな
流木に明日の天気を告げに行く
麦笛の黙せば 不意の虹である
彗星に性器をむけて葬らる
友逝きぬ繁分数を知らぬまま
乾坤や諸花鉄瓶に咲くことも
九段坂はたちの春を笑ひつつ
夏帯をゆるめて汽車の遠煙
父の背の広さよ江ノ島鯨ショー
右翼万歳磨き飽かざる青林檎
黒揚羽耳の奥より逃げ出しぬ
月曜日ずらりとベンチ孤独なベンチ
泣き止みし疲れよボートすべて空ラ
白秋の指に渦ある流離かな
蚊柱や影のかたちに我育ち
ずぶ濡れの山と玄関の間の秋
九月身延を耳もてあます暑さかな
ゲンコツのごとし久遠寺大山門
甲斐玄く秋灯一下歪まざる
白泉を語りて秋の別れかな
雲上に葛の巻きゆく時間かな
縄梯子垂らして川を晩夏とす
しぐるるや木琴紐に貫かれ
手をひつぱる鬼は夕焼け色だつた
幼年や見えて魚影の遠ざかる
海上に虹 紙風船に父の息
霧は霧に飲まれ ゆぶねの母は鱶
旗の黄を炎天の黄よりふりおろす
錆釘に陛下殿下と垂らし置く
永き日の日の水没の水煙
雷しきりわが極北に杉の母
大雪の礼砲海へ撃たれけり
蝶群れて錆びゆく天にほかならず
白梅の咲き散らかつて父太る
【世紀末】
味噌汁に映るわれらや世紀末
世紀末水鉄砲で撃つ額
原色の世紀末虹に摩擦音
【お茶】
茶飯事の魚ばさりと降る炎天
茶柱や雲・浮標・胎児・大八洲
被爆前の四月の午後の捨て茶殻
【楽器】
打楽器に連れ去られたる父・父・父
手さぐりの楽器が君の声を出す
骨は楽器と思はば街は雨の森
【映画】
馬と陛下映画の夏を通過せり
昼顔よ無声映画に降る雪よ
映画果てひでりの道を戻りけり
【波】
麦は波はじめてタバコ吸ひし日の
春の波ひとりは生きて運ばるる
たたなづく青波あかねさすキノコ雲
【車】
子は死んでいそぐ車座の手から手へ
焼くるときは叫ぶべからず風車
肩車姿見にボクの首が無い
【落】
黄落や天焼く夕日てふも比喩
或る朝は焼け落ちつつも舞ふ鳶
百日紅撃たれて死するとは堕落
【髪】
常闇やまずもつれあふ髪と髪
髪生れて髪靡かす胎内は草いきれ
夏の木やゆすれば影は怒髪の木
歌人の加藤治郎さんとの交換題詠。
「世紀末」「お茶」「楽器」「映画」は加藤さんからの題。
「波」「車」「落」「髪」は山田からの題。
短歌誌「未来」 一九九二年六月号
林桂に捧げる五つのひらひら
退職後の恩給やらのことで進学先を選ぶ級友がいて、「それならば」と三十五歳で死ぬことに決めたのは、十七歳の誕生日のことだった。
炎天を「天地無用」の四文字の緋
現在三十二歳と七ヶ月。あと三年も無いこととなった。あのころの林先生は何歳だったのだろうか。俳句クラブは、先生も含めて全員が独身男性でしたね。
のどぼとけくらべてをはる九月かな
「自殺のすすめ」など著す者は自殺しないと思う。死に方を熟考する奴らは、よりよく死ぬための向上心など芽生えて、死んでいる暇もないし、ひとの意見に頼って自殺してしまうほど楽観的でもないだろうから。
遠雷や問五の解は「二位の尼」
同窓会を開いたことも無ければ、誘われたことも無い。生きている間、もう二度と会わないかもしれない級友たちよ。会わないことが気にならないことを我らが名誉としようか。
山紫水明どなりつくして卒業す
「夭折」という言葉は、林桂から学んだ。それが、死にたがる若者ではなく、生きようとする若者に与えられる呼び名であるということも。
昼顔よ旗の流離はちぎれつつ
桐生高校文芸部誌「洋燈」広告掲載一九九九年八月
ひらひら家族の肖像
授業参観に母が来ないとがっかりするのに、来るともっとがっかりするのはどうしてだろうか。
忘れやる母の乳房や遠花火
テレビをつけたまま寝ている。そっと消すと「なんだ人が見てるのに」と怒る.結局みんなからあきらめられて、画面の砂嵐に照らされているぼくの父よ。
手花火の輪の真ん中を父帰宅
出会う前から知り合うはずであった。そんな不思議な因縁を疑わなくなった。別れたくないのにやってくる別れを、数多く経験したからか。
七夕や絹も木綿もそらだたみ
桐生高校文芸部誌「洋燈」広告掲載二〇〇〇年九月
夜 の 雪
雨まじるわが手がかりの海鳴りに
蝶に声あると思はば青簾
海までを椰子一列の野分かな
友の忌の蚊柱なれば浴びにけり
野菊摘み以て野菊の原を打つ
ひとり漕ぐ野は胸高に秋の暮
秋の野に鬼のこさるる遊びかな
反古で折る小さき鳥よ沖は雨
御無沙汰をさはさりながら冬薔薇
浴室に鯨を待てば夜の雪
スリッパを撒き雪女を悩ましむ
野球帽置きて廊下をさびしうす
濁点の淋しさ又は昼の雪
茄子に臍彫りて不孝をわびにけり
篠笛の使はぬ穴の星祭
木と生まれ俎板となる地獄かな
身のうちを骨は濡れつつ滝凍る
春闌けて火燵に犀のゐる気配
本懐は男子のものかゆでたまご
冬の虹でしたと匙で窓を指す
手拍子に何も出てこぬ春の山
土筆借り土筆で返す遊びかな
鯛焼けていづれも黒き客の靴
春泥に贔屓の穴を作りけり
床の間に雉子の流転は定まりぬ
ひと山に座布団を寄せ涅槃雪
春昼の鶏舎に鶏もゐる気配
木の門を昭和は長く木の閂
夜を咬めば息は吹雪にちぎれけり
狼に降る雪と決め舌を出す
狼よ誰より借りし傘だらう
狼に拝ませておく干し大根
狼が父の声出すとどめかな
今生はおきどころなし濡れしゃもじ
戦争や殻のくらさに黄身浮かび
涙のごとく蜆のごとく柿の花
七夕の触れてくもらす金の鶴
後ろ手に閉めて隔つる日本海
ゆく夏を老木に木の櫂もたれ
ひとつ選び煙突までを夏の旅
蚊柱に唱つて聞かす国歌かな
幕末の話すぐ果て白浴衣
十薬の出ては刈らるる借家かな
ひと箸で素麺さらふ終戦日
島国や立たせて縛るわすれ傘
吹かれ来て蝶に見知らぬ山河かな
よぢりすぢり
春愁のいもむし二匹抱きあへり
一生にまぶた一枚玉椿
天文や地べたに漬物石を置き
はつゆきに理路整然と黙りけり
まほろばに角煮も白く冷えにけり
平成の挙句の嘘に鳥わたる
わが恋の臍であぢはふ青畳
絵の海に波の音する奈落かな
花ひとひらおつむにつけて祖母届く
春の夜に釘たつぷりとこぼしけり
湯疲れの地獄へ垂れて藤の花
おぼろ夜に白もくれんの高さかな
手枕で押し通しけりほととぎす
何につけ稽古は大事からし茄子
夕涼みそれぞれ違ふ鍵を帯び
今生は鬼にあらぬが蝉時雨
海峡のかなたこなたのかき氷
船もやふ杭まで拝み夏の旅
秋雨や花札の山ふたつ伏し
男泣き又は赤城の鬼やんま
地獄への道のりは徒歩花すすき
群青へ野は竜胆のたふれつつ
冬の虹両手で耳をふさぎ見る
黄落や肉煮る鍋のふきこぼれ
わが声にふり返れども冬日向
陰陽のじょきじょきじょきと裁ち鋏
一〇円玉の赤のさまざま春の雨
ドアノブを濡らして帰る霞かな
落日と荷造り紐と雪だるま
陽炎や咳を殺せば我にじむ
弟よみな左向くたいやきよ
送友人 長岡裕一郎の急逝の報に接し李白の詩一編に依り 十三句
短夜の紙ヒコーキに李白の詩
薄墨は去る人の名も山水も
白水と書きて白消す五月尽
何も吊るさぬ縄一垂の熱帯夜
うたたねの夢に孤蓬となりにけり
浮き雲に定型は無しただ往けり
落日やコップの筆は天を仰ぎ
故人の席設けて今日の花見かな
行く春やゆくならちやんと手を揮れよ
茲に薔薇埋めしといふが花野かな
蕭々と湯気は薬缶に立ちて去る
後ろ手に曳けば馬より鐘の声
いななきて痩せいななきて痩せ沖の櫂
滝氷りすなはち音の滝氷る
結局は天竺さびし股火鉢
炎天を吸ひ炎天にラッパ吹く
穴を聴くその片耳を秋の天
降る花を母と思はばのど仏
雪の野に雪降り乳房線で描き
昇天のひとりぼつちよ茄子に棘
はだか火は分けてはだか火寒すばる
箸を逃げ骨に春昼あかるけれ
おい雲よオーブンの蓋が開いてるぞ
一日の腰のあたりを初しぐれ
頭までのまるる釘の浄土かな
ねじ山のあまさをさくらふぶきかな
櫻咲くうおおおおおおおおおあくび
夜櫻へ腕は使はず歩みけり
墓をさへぎる墓をさへぎる櫻かな
花影を出て花影へ老いゆくか
ちりめんのよぢりすぢりを花見かな
御不浄の深さの春を跨ぎけり
戸袋は闇で悪いか涅槃西風
黙祷のそのしろがねのパイプ椅子
眠き夢なり月見草まで這ふ夢なり
解 説
俳諧としての大風呂敷 今泉康弘
鷹の羽落ちてゐる庭見つからず
山田耕司は書道に巧みである。つまり、字が上手い。彼からの書簡を手にした人は、みなそのことを知っている。小学生の頃から書道教室に通い、毎週、八十枚ほど書く、ということを続けてきたという。だから、彼の立居振舞には、墨の匂いがする。
高度成長期に生を享け、西洋化した現代文明の中で暮らしながら、高校生の身で俳句という形式に興味を持った。そのことには幼少から書道に没入してきたということが関わっているのではないか。いわば素地があった。そこに桐生高校俳句クラブでの、林桂との出会いが加わる。林桂は自ら薫陶を受けた高柳重信のことなどをクラブで紹介し、俳句の持つ豊かさと可能性を伝えた。その可能性の広がりの中で、山田耕司は未知なる自分自身とめぐり会うべく俳句を作り始める。 「桐生」の章は、その高校時代の作品である。掲句の「見つからず」という打消の表現には、空虚と喪失としての現在が刻まれている。しかし、それゆえに、天翔るための翼を欲してやまない。そうして、藤原定家が灰色の浜辺に「花も紅葉も」浮かび上がらせたように、俳句形式の中で初めて鷹の羽は美しい幻として発見される。
少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ
山田耕司は和風の味わいをしたものを好む。住まいも大変古く趣きのある日本家屋であり、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」や「陽炎座」に出てきそうな雰囲気がある。自らも和服を着るし、仕事も古文を教えることである。そういう意味で、俳句もまた和風のものとして好みに合う。しかし、例えば、この「少年兵」の句について、これは季語がないし、花鳥諷詠でもない、これで和風とか伝統とか言えるのか、と問う人がいるかもしれない。俳句の「俳」は「俳諧」から来ている。俳諧とは、既成の和歌の美学に対して、滑稽という立場からパロディー化することであった。それこそが「俳」の伝統である。とすれば、五七五の定型に諧謔の毒味をたっぷりと盛った「少年兵」の句こそは俳諧の伝統に則っている。季語とは、そもそも連歌の約束なのであって俳諧の本質ではない。「花鳥諷詠」に至っては二十世紀になってから高濱虚子が発明した概念に過ぎない。
なお、そうした形で実験的に、時に擬古的に伝統を追究するにおいて、澤好摩をはじめ、「未定」と「円錐」の人々との交流が刺激となったのであろう。「少年兵」の章は、主に「未定」と「円錐」初期の作品である。
「夜の雪」「よぢりすぢり」この二章は、約十年間の沈黙を終えて「円錐」に定期的に作品を発表するようになって以降、約八年間の作品から成る。
反古で折る小さき鳥よ沖は雨
山田耕司は折紙が好きだ。彼がイタリアへ行ったとき、かの地の少年に折ってあげたところ大いに喜ばれたという。反故・・・例えば、手紙や原稿用紙などの書き損じ、それを捨ててしまわずに、指先で小さき鳥の形に折る。途中まで書きつけられた言葉は、その翼や首として折り込まれて、鳥の形として佇む。窓の外に、遠く雨に煙る沖が見える。雨は空を灰色にし、海を灰色にする。雨の近づく音の中で、言葉は鳥の形に息づいている。
男泣きまたは赤城の鬼やんま
山田耕司は文章や会話の中で、よく比喩を使う。例えば「海の水をバケツですくっても、波をとらえたことにはならないように、どんな分析も分類も、自分が次に作ろうとする作品の『動機』にはならない」(「円錐」三十二号)。彼がこのように比喩を使って語るのは、高校時代からのことであるが、三十代に入ってからは、ますますそれに磨きがかかり、とりわけ文章の中でその技を追究しているように見える。彼にとって比喩とは、単に修辞の一つなのではない。正岡子規にとって「写生」が思想であり生き方であるように、山田耕司にとって比喩も思想であり生き方なのだ、と思う。
この句の「赤城の鬼やんま」は「男泣き」の比喩である。ただし、ここでは散文的なわかやすさのためには使われてはいない。意味ではなく、感性の面で働く、詩的論理としての比喩である。さらに言えば、俳句とは、丸々作品全体が詩的論理において比喩として働くものである。その点で俳句形式は山田耕司の資質に合っている。
まほろばに角煮も白く冷えにけり
山田耕司は料理を得意とする。角煮も作るし、アボガドのヴィシソワーズも作るし、菊の花のリゾットも作る。その腕前は雑誌で紹介されたほどだ(「食楽」二〇〇六・十二)。彼の家に遊びに行くと、様々な料理でもてなしてくれる。その料理のことと、本句集の後半部の作品とを重ね合わせて、彼自身こう語っている。
後半は、「なにを作るとあらかじめ決めず、冷蔵庫の中にあるもので何らかを作り出してしまうチャレンジ」の様な時代かもしれません。俳句形式とは「何を言うか」ということよりも、言外の余韻や余白のようなものを、言葉のかかわり合いが生み出すものと思い込み、着想の重い軽いを問わずに言葉で遊ぼうという気持が強くなっています。
山田耕司とって俳句は料理に似ている。料理を楽しんで作るように、」俳句を楽しんで作っている。そういうわけで、本句集は山田耕司の創作料理を盛りつけた、もてなしの食卓なのである。では、乾杯!
(いまいずみやすひろ/俳句研究者)
あとがき
家は少しずつ、そして確実に歪みつつある。東西にねじれているのである。建築されてからおよそ一五〇年。江戸時代初期の都市計画を今日に伝える桐生本町の一丁目と二丁目の境にある。この家を建造当初の姿に一部復元してからすでに干支ひとまわり以上の時が経った。食器店、そしてカフェ、内容を変化させつつ経営してきた。その店の名、それは「大風呂敷」。
俳句を書くということにおいて、高校生・大学生のころと三〇歳代の自分は連続していない。二〇歳代後半は、ほぼ作品を書いていない。形式や状況にいたづらに我が身を委ねることを潔しとしなかったのだ、と、まあ、気取ってみるわけだが、こうした言い草は後から何とでもひねりだせるというものである。いずれにせよ、このわが怠惰と混乱の時代のさなかに育んできたもののひとつが場としての「大風呂敷」だ。ということは「大風呂敷」とは、書かれることが無かった我が句の墓標でもある。あるいは、読者諸兄諸姉におかれては、およそ二十五年間の作品を一冊に取りまとめた行為をもって、「なるほど大風呂敷」とお思いになるかもしれない。
家は、歪む。自分もまた変化していく。ここに今、柱を一本立てて、次なる変化を迎えてみよう、というわけで、この句集は生まれた。
編集の段階から解説の執筆まで、わが畏友・今泉康弘君に絶大な力をいただいた。そもそも彼と出会わなければ、山田耕司は俳句を書き続けてはいない。本作りにかかわるすべてにおいて、澤好摩氏に面倒をおかけした。もっとも、この四半世紀、澤さんに面倒をかけ通しなのではあるが。横山康夫氏(邪馬猫亭)のお力で版面ができあがった。表紙の印章は斬新なセンスを持つ若き友人・岡野紹さんのデザインである。デザインオペレーターはK君。皆様のお力添えにあらためて感謝申し上げたい。謝辞は続く。どんなときも支えてきてくれた糸大八・橋本七尾子両氏をはじめとする「円錐」の皆さん。桐生の大先輩、故・阿部光作氏。遠藤京子氏。同時代をともに生きる友人たち。そして、鬼籍の友人たち。家族、塚本陽子、そして桐生の街よ。ありがとう。
最後に。読者を得てこそ俳句作品は大きく息づく。
というわけで、あなたに、感謝。
二〇〇九年 十一月 山田耕司
山田耕司 略歴
一九六七年(昭和四十二年)一月二十二日 桐生市に生まれる。
一九八二年 群馬県立桐生高等学校入学
一九八三年 桐生高校在学中、林桂(林政美教諭)と出会う。
今泉康弘と出会う。
一九八五年 明治大学文学部入学(文学科日本文学専攻)
澤好摩と出会う。俳句同人誌「未定」参加(一九九〇年退会)
一九九一年 俳句同人誌「円錐」創刊に参加。直後、俳句から離れる。
二〇〇二年 「円錐」に復帰。
舞台演出 フラメンコ「愛はむらさき」主演・野村裕子(二〇〇一年)
「える・ふらめんこ・西鶴」主演・野村裕子(二〇〇三年)
現代舞踏「吉見座/青の卵」主演・山下浩人/石坂亥士(二〇〇五年)
脚本/演出「あの鐘を鳴らすのはサザエ」主演・杉浦花子(二〇〇五年)
共 著 「俳句・イン・ドローイング」(ふらんす堂)(一九八八年)
オオウチサトコとの共作「すなイルカのつかまえかたについて」
句集 大 風 呂 敷
二〇一〇年一月十九日 初版五百部発行
著者 山 田 耕 司
発行所 大風呂敷出版局
FAX 〇二七七(四四)三九六六
群馬県桐生市本町二丁目一番八号
印字版製作 邪馬猫亭
印章デザイン 岡野 紹
表紙デザインオペレーター 森下径一郎
印刷 カントー印刷