第8回 円錐新鋭作品賞

荒野賞 (小林恭二推薦)

佐々木歩 「たましひの器」    読む

白桃賞(山田耕司推薦)

青木ともじ 「篝」        読む

白泉賞(今泉康弘推薦)

織田亮太朗  「■■者」     読む

推薦作品(一句推薦)          読む

小林恭二推薦 第二席  涼野海音「雪女」     読む
小林恭二推薦 第三席  内野義悠「薬効」     読む

山田耕司推薦 第二席  本多遊子「永遠の三」   読む
山田耕司推薦 第三席  山本たくみ「着席せよ」  読む

今泉康弘推薦 第二席  加藤閑「無垢と爛熟」   読む
今泉康弘推薦 第三席  ミテイナリコ「Like 唖 排句 Gocco(ご挨拶ver1.0)」 読む

小林恭二 選評 「荒野に咲く花々」            読む
山田耕司 選評 「俳句として書き上げること」       読む
今泉康弘 選評 「我らにとって型とは何か」        読む

第8回円錐新鋭作品賞  編集部より           読む

第8回円錐新鋭作品賞 編集部より

第8回です。

今回は72編のご応募をいただきました(第1回47編、第2回40編、第3回58編、第4回46編、第5回67編、第6回63編、第7回79編)。

2023年7月に、澤好摩が急逝。新鋭作品賞の開催のみならず、弊誌「円錐」の継続についても見直さなければならないような大事件でした。
同人たちは、集い、話をしました。そして、円錐を発行し続けることに決めました。
新鋭作品賞も、続けます。
俳句を書く人の発表の場、その多様性に寄与するために。そして、まだ見ぬ優れた一句に出会うために。「新鋭作品賞、もうちょっと続けてみよう」。澤さんは、亡くなる前の年に山田にそのように告げていました。

特別審査員として、小林恭二さんをお迎えすることができました。
合計1,420句(20句70編、多行10句2編)を読み評価するというお引き受けくださいましたことに、心から感謝申し上げます。

募集条件は、未発表の20句(多行作品は10句)。作者の俳句歴や年齢などの条件、一切不問。審査の上、20句を対象に、第一席から第三席までを選出。句単位での顕彰は、5句。
ご応募くださいました皆様、そして、募集情報の拡散などにご尽力くださいました皆様に、あらためて感謝と敬意を捧げたく存じます。                      (円錐編集部・山田)

今泉康弘 我らにとって型とは何か

選評 第8回円錐新鋭作品賞

 何一つ明かりの無い暗黒の中で生きていくことができないように、人間として生き、生活するにあたっては、生き方の型が必要である。その型を文化とか文明とか常識と呼ぶ。そうした型のうち最大のものは言葉である。生活の中で他人と意思疎通をする上で言葉は無くてはならない。しかし、それが型であるということは、既成の形に当て嵌めるということだから、各自の内面の微妙さをうまく表せないことも多い。俳句も一つの型である。時代によって型としてのあり方を変えつつ、その型を使うことによって、人は形にならないモヤモヤ混沌としたものに形を与え、そこに喜びを感じてきた。その型の最たるものが五七五の定型であり、季語を使うという約束である(と思われている)。しかし、それが型である限り、そこから生まれるものは既成の表現のくり返しとなり、新鮮さを失う。型のあり方に挑み、真に生き生きした美しさを掴もうとする作品を高く評価した。

 第一位は織田亮太郎「■■者」。

 ■■派反■■派皆裸
 痩身の■■省を出て四日
 脳髄を■■色に滴りぬ

  「■■」は、検閲されたあとの伏せ字のようであり、また、活字印刷における「げた記号(〓)」のようでもある。先年の本賞投稿作品にも、こうした試みはあったので、初めて行われたものではない。だが、一般的に、やはりこれは斬新な試みであることは間違いない。かつ、単に斬新であるだけではなくて、伏せ字の如き記号を導入することにより、作品に戦時下や占領下のような時代感、即ち不穏にして危険な印象を生んでいる。一般に俳句に対して抱かれるところの穏やかな趣味性だとか、安らげる文芸だとかいった印象に対して真っ向から異を唱えている。この挑戦の姿勢が良い。とはいえ、全く読者を突き放しているかというと、そうではない。「■■」の部分、音読できないように見えるが、よく見ると、「■」の一つが二音分であるとわかる。「■■」は例えば「バツバツ」と読める。するといわゆる五七五の型に収まるのだ。かつ、この二十句は全て季語をもつ。「四日」を一月四日、「滴り」を夏山の岩壁からの水滴、と捉えた場合に季語となる。かつ、全体が春夏秋冬の順に並ぶ。ただし、本作での季語の使われようを見ると、いわゆる歳時記的な用法ではない。こうしたことはどういうことなのか? ■■を使うという前衛性を空回りさせずに作品として成立させるために、そうしたいわゆる俳句らしさによって支えとしたのであろうか。あるいは、季語や四季順列という既成の観念への批評と見ることもできる。題名は「■■祭」とすれば、それも季語への批評となる。

 第二位は加藤閑「無垢と爛熟」。

 夏至の日の雪法王は口で受ける
 少年に舌を吸はせる獏老いて
 叫喚止まず教室の天上にイコン

 全体に夏石番矢風の味わいがあり、斬新さと不穏さの魅力がある。夏の空から雪が舞い落ち、それを法王が聖餐のように口で受け止める。その光景はまさに番矢風の見事な絵である。老いた獏が少年の舌を吸う図はあたかも山本タカトか丸尾末広を思わせる。「叫喚」は教室の子供たちと結び付くことで存在感を生んでいる。その天上(天井ではない)に、ロシア正教風のイコンが幻視される。 

 第三位はミテイナリコ「Like 唖 排句 Gocco(ご挨拶ver1.0)」

 詩に焚くない殻遺棄て煎る生盆
 その話一反木綿豆腐濾す
 深夜二時見えない虹の先の些事

 一句目は「しにたくないからいきているいきぼん」と読む。漢字変換のミスのようだが一種の語呂合わせでもある。二句目は「一旦」という副詞と「一反木綿」との掛詞。三句目は「ニジ」「ニジ」「サジ」という音の遊び。つまり、俳諧本来の滑稽味がここにある。特に一句目は「生盆」という、内容も語の響きも奇妙な季語と巧みに響き合っている。

 以下、審査用の資料に掲載された順に全ての応募作に触れていこう。

1 岡田美幸〈お雑煮の中の鳴門が微笑せり〉鳴門巻の渦巻模様が新春を寿ぐ。

2 小里今日子〈ひとつぶの葡萄のなかの海鳴りや〉深い海の色をした葡萄。

3 大野美波〈あの子さえいなかったなら木下闇〉小学生が同級生を妬む…。恋人を奪われた若い女の思い…。重荷となる子どもを持った親の心境…。誰しも抱いたことがある、心の中の闇を形象化。

4 赤木真理〈鞠かがる臍の緒二つ芯として〉出産時に亡くなった赤子の臍の緒。それを鞠とすることで、その子にも遊んで欲しい、という思い、なのか。

5 尾内甲太郎
 〈錆びついた
       ロケット
 枯野は
 剛毛
不要のロケットが枯野に廃棄されたか。

6 垣内孝雄〈鳰の湖なまづたくさんをりますよ〉琵琶湖に永田耕衣がいる趣。

8 坂西涼太〈十二月八日コップに水ふるへ〉戦闘機通過の振動か。繊細な感性。

9 山田すずめ〈町にまた増える戒名冬の虫〉個々の霊は時を経て先祖の霊と一体化するが、文字としての戒名は残り、増え続ける。その存在を冬の虫と重ねるのは辛辣な批評性がある。

10 播磨陽子〈うかうかと狐火の尾か腹か踏む〉百鬼夜行図の中、狐火の後ろにいるうっかり者の物の怪か。落語の趣も。

11 紅紫あやめ〈祝日も忌日も蜜柑揉んでいる〉なすことの無き人の単調な毎日を具象化。ある種の永遠性がある。

13 植田井草〈さよならは渋民駅の次の駅〉渋民は石川啄木の故郷。石川啄木の人生の場面か。静かなロマン。

14 五月ふみ〈外套に臓器と臓器隔てられ〉人間とは即ち臓器であり、その囲いとして外套がある、という鋭い幻視。

15 正山オグサ〈ミサイルに小さき羽や雪催ひ〉恐ろしい兵器が小鳥の様に見える。暴力と可憐さとの一体化。

16 村瀬ふみや〈鶏頭花無声映画に火の匂ひ〉鶏頭の映像に炎を感じる鋭い目と鼻。鶏頭は無言のまま燃えている。

17 千住祈理〈生きたさの自自自自荷重冬の海〉生の衝動が重荷となる詩人の体感。「自我」の重さは近代人の宿命。

18 菅井香永〈初旅やあんパンの餡まで遠し〉食べることも旅だという洞察。

19 涼野海音〈次の世も次の世もまた雪女〉一つの魂が生まれ変わりつつ雪女であり続ける。雪女への優しさとロマン。

20 三島ちとせ〈墓参りスプーン曲げられる叔父と〉素敵な叔父さん。羨ましい。

21 あおい月影〈小春日や監視カメラのない戸棚〉題は「コンビニの日常」。監視カメラだらけの店内に一箇所だけ、カメラに映らない所がある。それは冬の暖かな日のようだ。共感します。

22 相田えぬ〈頭痛吐き気眩暈のち冴える〉季語「冴える」が気語となる面白さ。

23 高橋花紋〈これは純文学あれは寒鴉〉「これ」が何か気になる。作品自体か。

24 藤雪陽〈天心に集へる送り火の煙〉天の中心に天国への入口を見る深い視線。帰る霊のターミナル。

25 青木ともじ〈初夢に君はゐなかつたと思ふ〉「と思ふ」の曖昧さに現代人のあり方が投影されており、現代的である。

26 佐藤研哉〈極月の上映中の小さき地震〉非現実から現実へ戻る感覚を形象化。

27 楠本奇蹄〈冥婚の喉に白魚わだかまる〉冥婚は死者との婚礼。その参列者が白魚を食べると喉に引っ掛かる。不気味だ。そこに詩的実感がある。

28 有瀬こうこ〈寒鯉の口がUFO呼んでゐる〉鯉の口という凡庸な素材を、誰も詠んだことのない非凡な観点で描く。

29 貴田雄介〈平和とは空しき言葉冬荒野〉平和は人類にとって最重要概念だが、現実にかくも裏切られている言葉は無い。その歎きを「冬荒野」が象徴。

30 山本たくみ〈ばいきんをなすりつけあふさくらかな〉小学校での日常を教員の視点からシニカルに描いた連作。面白い句が沢山あり、特に掲句は学校を越えた社会批評として普遍性がある。

31 佐々木歩〈腫瘍から焚火の音がしてをりぬ〉ザ・バンドの『南十字星』の如く焚火にはロマンティックな趣きがあるが、掲句はそれを踏まえつつ巧みに異化している。三鬼の「水枕」に迫る。

32 平良嘉列乙〈領土・領海・領空、炬燵に伸ばす足〉炬燵での陣地争いという卑近なことと国際政治との落差が俳諧。

33 平野光音座〈熱に倦みアセチルサリチル酸残響〉アスピリンが響く感覚を活写。

34 本多遊子〈春宵一刻キープのボトル拭くをとこ〉滑稽な様子を切り取る観察眼。拭く姿の可笑しさを巧みに書く。

35 かくた〈北窓の網戸が破けていた〉自由律のような味わい。破けていたってええじゃないか、という気持ちになれます。俳諧性があります。

36 古田秀〈地下鉄は都市の腸クリスマス〉人間は都市に吸収される食物に過ぎない。都市こそが主人だと明察している。

37 髙田祥聖〈報はれぬ案山子ばかりやおなか空く〉風雨に晒されて働いても感謝されない案山子達への切ない共感。

39 杢いう子〈膵臓脾臓とささやき交わす菊花展〉内臓同士が身体の主の事を相談。菊の香りに誘われて。

40 ばんかおり〈喉奥の目薬あまき銀河かな〉目薬が溢れて口に入る。飛躍が絶妙。

41 川田果樹〈凍る水面にいまかいまかと触れてゐた〉今凍りつつある水面の感触。風狂の精神。

42 七瀬ゆきこ〈バーバーのーのひとつが暖かし〉「ー」は「アー」と読むのか。小沢昭一の俳句のような飄逸な味わい。

43 藤白真語〈とりあえずパンツを履いてからビール〉一人暮しでも、履いてから。秀逸な現代川柳の趣。

44 立木司〈風船が押すな押すなと死出の山〉冥府を描く。独特の感性が秀逸。

45 花島照子〈早起きの九月の真水飲み干して〉「真水」がおいしそうで印象深い。

46 クズウジュンイチ〈うつぶせのうしろあたまのほととぎす〉呪文のような不思議な味わい。平仮名表記も成功。

47 木佐優士〈秋日傘母が仏花をぶつた切る〉仏花は供花か。それを傘で切る凄さ!

48 とみた環〈寒烏・折り重なりて祈りけり〉中黒の生むリズム感が快い。

49 横田縞〈耳の奥に戦ぐ花野はいつも雨〉目や胸の奥ではなく、耳の奥。簫簫たる雨の音の花野という美しい内面世界。「戦ぐ」の効果で古戦場を想起。

50 海音寺ジョー〈端材で作れとの下知オリオン座〉工場の景だが、神話のようだ。ギリシャ神話の裏話?

51 里山子〈祈りいま枯野があくびしたような〉真面目に祈っている時に情況に茶化される。かえって祈りの真摯さが滲む。宮澤賢治の童話のようだ。

52 沼野大統領〈草相撲敗けて螢のにほひかな〉土俵も無い文字通りの草相撲。地面に転がされると、そこに螢が舞った。

53 白夜マリ〈春暁の喉の奥から群青犬〉ダリの絵のようなシュルレアリスム。

54 奈良香里〈途中まで折り鶴だつた夏の雲〉鶴を折っていたら、真夏の大きな雲になってしまった。キノコ雲を思わせる。口語「だった」が効果的だ。

55 三浦にゃじろう〈どんぐりを拾って変わる未来かな〉個人の人生にもバタフライエフェクトがある。希望を示している。わらしべ長者の現代版?

56 菊池洋勝〈せめて足だけでもお湯に浸けますか〉少しでもリラックス。少しでもゆとりを。俳句の存在理由を示す句。

57 小夏すず子〈苺ジャム昨夜の傷と同じ色〉苺ジャムと傷口とを重ねる鋭敏さ。

58  三枝ぐ
 〈肉の虚          

 アンモナイトか
 泡雪か
 掲句以外にも印象的な多行句あり。

59 駒野繭〈春休みポストに挨拶してまわる〉郵便箱のことだろう。チャップリン演じる放浪紳士の如き、世界への接し方。作者の心優しさが滲む。

60 日月連〈花園に分け入つてあるタイヤ痕〉可憐な秋の草花を自動車が蹂躙!世界を脅かすものへの作者の悲しみ。

61 加藤幸龍〈春の夜の人魚きゆうきゆう産卵す〉擬態語が面白い。見たことのないものを見せてくれる面白さである。

62 石川聡〈名画座に来しが廃業春北斗〉寂しい気持がよく出ている。

63 石川順一〈十二月二掛ける二掛ける三掛ける〉語呂がよいので覚えやすい。

64 内野義悠〈起き抜けの水ふくろふと分け合はむ〉フクロウとの交歓に好感。

65 詠頃〈小鳥来るベッドを這っている手首〉気色悪さが気持ちいい!

66 田中目八〈おおかみの中でねずっと恋しよう〉狼の胃の中か? 斬新だ。 

67 あさふろ〈蘖ゆるクローゼットのラヂオかな〉ラジオから芽が出る。凄い。

68 郡司和斗〈獅子舞の中の父より鍵もらふ〉獅子舞と鍵との組み合わせが秀逸。中本昌人の〈なまはげの指の結婚指輪かな〉と並べたくなる秀作。

69 紺之ひつじ〈己が雪にまへがみ濡るる雪をんな〉前髪の具体性が上手い。

70 細村星一郎〈マグマただ滾る 扇を落としても〉扇は和歌以来、無数に詠まれるが、マグマに落とすのは空前の壮挙。

71 岡一夏〈便器みな正しき水位花八手〉映画『パーフェクトデイズ』の主人公が俳句を作ったらこうなるだろうか。

72 兎森へる〈虎落笛ネリエニヌルル家兎ノクチ〉兎用の練り餌があるとは知らないが、不気味な感じが凄い。

 お疲れ様でした。珈琲でも飲みましょうか。なに? 酒のほうが良いって? あっ、澤さんでしたか!

山田耕司 俳句として書き上げること

選評 第8回円錐新鋭作品賞

 まずは、感謝のメッセージを。

 応募してくださった方々に。募集情報を拡散して、円錐新鋭作品賞の運営を支援してくださった方々に。
 そして、特別審査員をおひきうけくださった小林恭二さんに。
 みなさん、ありがとう。
 小林恭二さん、ありがとう。 

 白桃賞
 青木ともじ「篝」。 

 目で追うて木目短き暮春かな

ことがらとすれば、命の痕跡でもある「木目」のあっけなさと「暮春」との共鳴。およそ、そこに詩情が託されていると読むところ。
 それは、そうと。
 作者は、着眼したことがらを着眼のままに書く行為への警戒心を持っているようだ。その姿勢にこそ、惹かれるところがあった。
 「目で追うて」。これは、書かなくても良いこととされそうな措辞だ。「木目短き暮春」で、十分に意味は伝わっている。しかし、意味を意味のままにしておくのではなく、読者が身体を通じて体験できるような筋道をつけるという点においては、「目で追うて」は有効技。「見てみれば」などではなく「目で追うて」という語を選んだことで、視覚と触覚との交感も余韻として漂うこととなる。

 湯の柚子を遊ぶほかにも用ゐる手 

 「ほかにも用ゐる」というやんわりとした俗事を連ねることによって、「柚子を遊ぶ」営みの聖性を浮かび上がらせる。あえて具体的な書き込みを控えることで、一点へと読者を向かわせるところに俳句的技巧がある。 

 二人して人参買うて来てしまふ

 「買うて来てしまふ」の、ほどよさ。「買うて来たりけり」と見栄を切ったら、「二人」の関係の日常性が吹き飛ばされてしまっていたかもしれない。「人参」のほどよさ。 

 ラジオから鯨を追へる人のこと

 鯨を追う人と自分との距離。それは、非日常と日常の距離。遥かなる非日常が生活空間の小さな道具からこぼれてくる。あえて「ラジオから流れる」などという状況説明を省く手さばき。これも、ほどよい。
 俳句としての「ほどよさ」は、作者であると同時に、読者としての視点を鍛えている作家であることが想起された。
 読み終えて感銘を受けてから、作家名を確認。青木ともじ、とある。第七回円錐新鋭作品賞において、澤好摩が二席として評価していた作家なのであった。
 今回の作品を、澤さんに読ませたかった。澤さんと山田は選出する作家が重ならないことばかりだったけれど、今回は例外になっていたかもしれない。

 二席
 本多遊子「永遠の三」。 

 鉄板のげそ立ち上がる義士祭 

「立ち上がる」を介して不思議な回路が生まれてしまっている「げそ」と「義士」。「祭」と「鉄板」の相性の良さがしたたかに句を支えている。モノやコトの日常的な顔つきの奥に、名付けられないような感情の回路を配線するのが、俳句ならではの面白み。そんな面白みに富む作品が並ぶ。

 春深し骨凭れ合ふラムチョップ
 街溽暑あんこ禿げたる串団子

 食べ物の句が、いい。(季語+状況+食品)という同じ構造なのだけれど、それぞれに、それぞれの味わい。
 「大柄なをとこと暮らし独活捌く」(ウドの大木)「斑猫や口で説明できぬ道」(斑猫には「道教え」の異名あり)、この辺り、意味の焦点が一点に注がれてしまって、俳句作品としての香気が後退してしまっているようで惜しまれた。 

 収縮をしさうな枇杷の黒き尻 

 およそ一般的には許容され難いような発見。それでも、見えてしまっているものを書く。輪郭を持つことなきままの発見を書きつける形式としても、俳句は機能し続けるであろう。作者の独自な突っ走りぶりをもっと見たい気持ちになる。

 三席
 山本たくみ「着席せよ」。 

 ストーブに飽きし者より着席せよ 

 一読、渡邊白泉の「玉音を理解せし者前に出よ」を思い出した。いうまでもなく、白泉の作品における「玉音を理解せし者」という内容の重みは、「ストーブに飽きし者」と比べるところではない。ともあれ、であるからこそ、「支那事変群作」あたりを想起しながら読み、〈俳句が現実世界に接する際の手さばき〉について今更ながら考え直す契機となった。

 給食のこれを松茸飯と言ひ
 フラスコの微かに揺るる運動会

 主観を抑制しながらも、それとなくユーモアをしのばせること。世界の大きさを部分のありようで汲み取ること。こうした手さばきは、俳句や川柳ならではのものと言えるかもしれない(現代の川柳が遠ざかろうとしているものかもしれないけれど)。戦争であれ教育現場であれ、その手さばきは、一定の機能を果たす。変化し続ける社会において、こうした作品を書き上げる作者の行方に心惹かれる。

 聖歌たからか自販機に白湯がない     山田すずめ

 自販機のディスプレイにに、ドリンクたちがずらり。背景から光を受けて輝いている。その姿と聖歌隊の姿とが重なる視点は、俳句ならでは。「白湯」の不在は、たからかに歌われる聖歌に対する〈俗〉の位置を示しているようだ。これは、そのまま俳句に対する作者の鋭い感覚を表現している。

 凍鶴はねぢれ知恵の輪はじけ飛ぶ     佐藤研哉

〈厳寒の中の鶴の印象をいう。風雪に耐えながら自らの翼に首をうずめて片脚で立っている鶴は、まさに凍てついてしまったかのようである〉。これは、季語「凍鶴」の説明。凍えているという点に心寄せをすれば、人間の心情を重ね合わせるような書きぶりになるところであろう。しかし、その形状にのみ即物的に注目していて「ねぢれ」。人事としての意味から解放された圧力めいて、同じようにねじれからまっている形状の「知恵の輪」が弾け飛んでいる。日常的な論理では発生しないような回路が生まれている。意味の世界の召喚に応じもせずに、その回路を句として書き留めた行為に強い共感を覚える。

 頬杖の杖を剥がして割る焼酎      かくた

 頬杖をついている。そのままでは、次の一杯をこしらえることができない。
 仕方がないなぁ。
 こんなドヨンとした気分を、「頬杖の杖を剥がして」と表現したことに驚いた。「剥がして」という言い回しに、〈仕方がないなぁ〉感が滲み出ている。
 こんな気分を書き留めることに何の意味があるのかという考え方もあるだろうが、言葉としての骨組みが与えられることで、意味を超えた価値が漂いはじめる。そして、こうやって価値を発生させる言葉を重ねていくことで、俳句という文芸の奥行きが、また、少しふくらむことになるのだろう。

 生牡蠣や住所氏名の字をくづす   クズウジュンイチ

 住所氏名を書く機会がある。それは、おおむね、他者に読み取られることを前提にしている。手元のメモ書きとは、趣を異にするのだ。
 他者の目に触れる「住所氏名の字」を崩す。それは、他者への配慮をやめてしまったわけではないけれど、と同時に、自分の美意識やら生理的な癖やらにくつろぎを与えるような行為である。
 自分を、許す。世界とは、やんわりと繋がりながら。生牡蠣を食べることにも、また、そのような趣がある。
 切字の「や」に対応するべく、下五の「字をくづし」と連用形にしてしまいそうなところだが、それでは、字を崩したのちに生牡蠣を食す、というような時系列が発生してしまいかねない。それでは、あまり面白くない。掲句の表現にさりげなくとどめたところに共感したことも申し添えておく。

 磔の女滝受肉未遂の咎      日月連

 作家名は「たちもり・れん」と読む。
 実のところ、「受肉未遂の咎」という表現は、俳句的には何も伝えてこない。確かに読めば意味はわかる。意味がわかるということと、俳句ならではの価値を形成することとは、質が異なる。
 ともあれ。
 これは、凍った滝のことを描いているのかもしれない。完全に凍結していれば滝は「受肉」して屹立していたであろうに、凍っているところに水が流れて、どうにもおどろおどろしい様子になっている。生と死、命と物体の境界面にあるような様子を、「磔」としたのだとも読める。「女」という言葉も、滝のサイズや佇まいを暗示させるだけでなく、江戸期の責絵めく猟奇的な気配を煽るのに役立っているのであろう。
 それにしても。
 「咎」は、饒舌。これは作者が押し付けた意味であって、俳句としての面白みを削ぐ言葉となっている。
 そもそも、「磔」そのものは、滝の様子の〈見立て〉。その〈見立て〉、つまり作者の中に発生した連想は、「うむ、なるほど」と読者が受信してこそ表現として成立する。本来は主従の従である〈見立て〉が、主たる実景を押しのけて意味を強めると、俳句表現は失速する。
 では、あるが。
 ここは、新鋭作品が集うところ。
 作者が自らの表現に革新を求め、多くの方法を試みることに、日月氏の作品を掲げつつ、あらためて敬意を捧げたい。

 澤好摩は「新鋭、三日見ざれば刮目して待て」と口にしていた。チャレンジの向こうにある新しい表現は、まだ、書かれていない。その未だ書かれざる作品のためにこの賞が寄与できれば幸甚の極みである。

小林恭二 荒野に咲く花々

選評 第8回円錐新鋭作品賞

 まずはご応募してくださった七二名の方に感謝申し上げます。一句や二句の応募ならいざ知らず二〇句まとめて応募するには、まず作品のコンセプトを定めねばならず、それだけで大変な仕事となります。しかも未発表作品となれば、いわばぶっつけ本番で送らねばならず、その不安たるや大変なものだったと思います。今回読ませていただいた応募作はどれも熟考のあとが滲んだものばかりで、選句担当者としてもうならされる思いでした。
 その中から入賞三作、入選句五句を選んだわけですが、文字通り泣く泣く落した句が多くありました。それらはほとんど寸毫の差であり、敢えてい大げさにいうなら、あらためて選の怖さを思い知らされました。

 その中で第一位荒野賞にいただいたのは佐々木歩さんの「たましひの器」でした。

 腫瘍から焚火の音がしてをりぬ

 普通に考えて、腫瘍から焚火の音がすることはありえない。しかしでは腫瘍はまったく無音かというと多分そうじゃない。ごく小さいでしょうが、腫瘍の中では炎症が起こり、それを消し止めようと白血球が集まり、それに対して病変部分が更に炎症を起こすといったことが延々行われている。それはまさしく焚火が燃えるような現象なのでしょう。
 もちろん、作者がこんな理屈をいちいち考えて「焚火の音」と表現したのではないと思います。作者は直感をもってそう表現した。それが読者の心に波紋を広げミクロの世界での焚火を幻視幻聴させたのです。ちょっと類想をみない世界であり、記憶に残る句でした。

 溺れたら人に生まれる冬銀河

 シチュエーションが面白い句です。「溺れたら人に生まれる」ということは、主体は人ではないということになります。では何者か。そもそも銀河に溺れるというのですから、生物でもありますまい。連作のタイトルから想像するにそれは「たましひ」、それも戻るべき肉体を失い、冬の銀河をさまよっているたましいということになろうかと思われます。
 ただそうやって馬鹿正直にシチュエーションを追った後で戻ってくるのは、冬銀河をみつめている作者の姿です。作者はイメージの中でたましいとなって肉体を離脱し、冬銀河に溺れる自分を想像している。その際、自分が人間であることも忘れてしまっている。
 全体的な感想としていうなら、作者は人でありながらそれを実感できない自分を感じており、あの冬銀河に溺れたらまっとうな人になれるのかもと思っている。
 そうした哀切さがわたしの好みでした。

 花婿がをるかもしれぬ凍土掘る

 マンモスじゃあるまいし、花婿が凍土の中に埋まっているはずがない。でも作者は「をるかもしれぬ」といっている。この花婿は作者と出会うために何万年も前に永久凍土の中に転落して作者を待っていたのでしょう。これもまた哀切な印象があります。わたしはアンナ・カヴァンの「氷」を思い出しました。
 他に印象に残った句としては「鮟鱇にする祈らねばならぬなら」「手毬唄からだの底に何かある」がありました。

 この「たましひの器」と最後まで争ったのが涼野海音さんの「雪女」でした。わたしが注目したのは、

 ピッチングマシーンの音冬に入る

 でした。今回全応募作一四四〇句中おそらくいちばん好きな句でした。
 ピッチングマシーンというのは、バッティングセンターなどにあるボールを投げる機械だと思います。あの機械って、娯楽用のものであるにもかかわらず、存在のあり方がひどく非情で、おそろしげなものです。それに着目したのは北野たけし監督、『アウトレイジ・ビヨンド』ではピッチングマシーンに殺される若頭を描きましたし、『最終章』でもバッティングセンターは無法地帯のように扱われてました。
 おそらく実景からこの句を詠んだのでしょうが、無機的な暴力に対する直感的理解が底にあるような気がしました。

 頂を隠す白雲西郷忌

 西郷隆盛というのは、実に茫漠とした人物で、この人を理解するのは至難に近い。ただ古今の政治思想家は最終的に西郷にゆきつくようなところがあって、たとえば新左翼の理論家として名高い橋川文三も晩年は西郷研究に没頭していました。
 ここに登場する「頂」は桜島のそれだと解釈しました。あの雄大な桜島の山頂を雲がかくしている。西郷の思想体系を何かが見えなくしている、という読みは理屈っぽすぎて面白くないかもしれませんが、頂を西郷の正体だとすると、それなりにつじつまがあいます。
 あと「炎昼の磐座を翔つ大鴉」「蟻食の舌長々と大暑かな」の成熟した写生の腕前に舌をまきました。全体に安心して読めた連作でした。

 三位としていただいたのは内野義悠さんの「薬効」です。

 舌禍はや忘れ車窓をすべる雪

 「舌禍問題」というと政治家だと相場が決ってますが、どっこい我々だって四六時中舌禍をしでかしています。酒を飲んでの舌禍は定番中の定番ですが、何かの拍子に出たことばで人に深く恨まれたり、いわずもがなのことばを口にして訂正に四苦八苦するのは日常茶飯事です。
 その舌禍をはやくも忘れ車窓をすべる雪を見ているのだという。「はや忘れ」とありますが、完全に忘れたわけではなく、車窓をすべる雪の動きの面白さに気をとられ、一瞬忘れたのでしょう。「何事もたいへんですなあ、ご同輩」と思わず声をかけたくなるような、そんな句でした。

 瀬音まづ朝寝の身ぬち明るくす

 舌禍の句が人生の実感を苦く述べた句だとすれば、こちらは作者の技術の確かさを感じさせてくれる句です。こうした感慨句を隙なく作れるのは、相当な手練れです。

 薬効のするどく小鳥だけは来る

 よく効く薬とか、ゆっくり効く薬という表現はありますが、するどく効く薬という表現は聞いたことがありません。どういう効き方をしたか知りませんが、何かまがまがしいものを感じます。実際、作者もそれを喜んではいない。せめてもの慰めとして「小鳥だけは来る」といってますが、おそらく副作用もあるのでしょう。全体に人生に対する苦闘が垣間見えた連作でした。
 他の注目句としては「脈拍をふたつ飛ばしに梅ふふむ」「夜伽せむまなじりに遠火事を留め」がありました。

 次に入選作以外で注目した句を五句あげます。

 新聞紙すらりと割いて焼藷屋

 播磨陽子さん「うかうかと」より。一読、膝を打った句でした。確かに新聞紙というのは、うまい人が割くと「すらりと」割けるものです。焼藷屋もさもありなんと思わせられる。「天使群れてゐるではないかシクラメン」も好きでした。ことばの並べ方に「官能的」とでも呼びたいセンスがあると思いました。

 墓参りスプーン曲げられる叔父と

 三島ちとせさん「白鳥」より。「白鳥」は北国の日常を気負うことなく、しかし詩情豊かに詠んだ好連作で、最後まで入選させるかどうか悩まされた作品でした。「墓参り」の句は一種皮肉なトーンですが、存外作者はこの法螺吹きのおじさんが子供の頃から好きだったのではあるまいか。おおらかなユーモアを感じる句です。他に「書き出しは辞表と同じ神無月」も好きでした。

 風船が押すな押すなと死出の山

 立木司さん「途中」より。実景を写生するのではなく、修辞的なことばの力で勝負する作風の作者ですが、どの句にもほどの良いユーモアが漂っており、懐の深さを感じました。「風船」の句は怖いようでもあり、おかしいようでもありますが、詠んでいるうちに死というのは存外そんなものかもしれないと妙に納得させられました。風船の群れはたましいの群れを指しているのでしょうが、セールに殺到する人々のようでもありました。

 パ ラ イ ソ は ・ 日曜の夜のひと家族

 とみた環さん「うすだいだい」より。書き方に工夫をこらした句ですが、わたしは「パライソは日曜の夜のひと家族」とオーソドックスな叙法に還元して読みました。「パライソ」は季語でありませんが、無季で成立するには弱いと思いましたので、勝手ながら「絵踏み」の外縁句と読みました。作者には不本意かもしれませんが、こうして仕掛けを排除して読むと、かえって穏やかな詩情が現れてきます。そのあたりがとみたさん本来の詩情だとわたしは思いました。

 ころされたぼくの神さまありがとう

 田中目八さん「虹の横顔」より。技術的には発展途上にある人かもしれませんが、一読恐ろしい精神の研ぎ澄まされ方で、ある意味作者が心配になるほどでした。「ころされた」の句は狂気と紙一重にあるような感慨で、よい意味でぞっとさせられました。「そうやって顔をそむけて虹にして」も恐ろしい句ですが「虹にして」に一抹の救いを覚えました。

ミテイナリコ「Like 唖 排句 Gocco(ご挨拶ver1.0)」

今泉康弘 推薦 第三席 第8回円錐新鋭作品賞

会津身知らず行方知れずの縊首
イジメてるつもりハ無かった雪吊
マネーロンダリング環指光りたり
教誨師今日か明日かと待つ狂花
その話一反木綿豆腐濾す
深夜二時見えない虹の先の些事
ネグレクト玉兎痩せ細り泣きもせず
逃亡の果て冬果てに成れの果て
拉致監禁少年Aへ半殺し
詩に焚くない殼遺棄て煎る生盆
凍蝶a.k.a.KGB
焼きそばの湯切り夜霧の有らん限り
千代美草アシタ世界が滅んでも
七対子初七日の秋刀魚
血の滴る剣先烏賊の鋒
喋喋喃喃喃語の楠公祭
被疑者死亡のまま桜蕊降らす
十月十日の絞める喉か。 長閑
浴室の母だった海赤のまま
ガザ 犠牲者 ミュート おやすみ霾風

加藤閑「無垢と爛熟」

今泉康弘 推薦 第二席 第8回円錐新鋭作品賞

雪まじるインクとミルク、イノセント
花捥いで無神論者のギプスとす
肉体に影の匿さる窪みなし
逃げる鼠追ひて漏るる脳漿
曇天に木枯は急く肉吊されし野に
鍵はみな外されてをり紅き薔薇
清冽な麻薬だ花のふりする貝は
少年に舌を吸はせる獏老いて
磔刑図収めし檻に氷柱垂る
血の補色たまりし部屋に赤き霜
吹雪の夜に問ふ血はどこにあるか
盲人の乳首に生えるバニラの木
透きとほる聖者の窓に椿象たかる
風に虹、地には声なき叫び満つ
叫喚止まず教室の天上にイコン
夏至の日の雪法王は口で受ける
悲嘆漏れ落ちて蝙蝠傘ひらく
砂粒のごとき虫に食はれてゆくわたし
十字架を降りる紫海鼠かな
ベラスケスの貌削いでゆく百合の花

山本たくみ「着席せよ」

山田耕司 推薦 第三席 第8回円錐新鋭作品賞

入学や順路の札を木に括り
春の川言ふほど中身なき校歌
ばいきんをなすりつけあふさくらかな
もう塾で習ひしそれや夏に入る
薫風の机を班のかたちにす
残業の四年二組のごきかぶり
臨海学校パンツを部屋に忘れけり
花丸に茎と葉添ふる昼寝かな
秋霖や写して終はる詩の授業
小鳥来る廊下天地の分からぬ絵
給食のこれを松茸飯と言ひ
フラスコの微かに揺るる運動会
窓あけて体育館の冬はじめ
挙手指せば今日は開戦日だといふ
校長を社長と呼びて年忘
ストーブに飽きし者より着席せよ
書初の[夢]に大小参観日
一人称先生たまに炬燵でも
呼名簿にマイクの影のうららけし
卒業の紅白幕を残したる

本多遊子「永遠の三」

山田耕司 推薦 第二席 第8回円錐新鋭作品賞

住民票もらふB1蛇出づる
春宵一刻キープのボトル拭くをとこ
啓蟄や電動歯ブラシうろうろす
春疾風銀座の隅に銃砲店
臍に寄る腰痛ベルト春の山
雛祭そろりそろりと戦来る
撫でて取る肉まんの紙養花天
日脚伸ぶ開けて売らるるお仏壇
フルスピード白バイは陽炎の中
鉄板のげそ立ち上がる義士祭
ガガーリンに届けゆらゆら蛍烏賊
弥生尽割り算の永遠の三
大柄なをとこと暮らし独活捌く
春深し骨凭れ合ふラムチョップ
あとずさりできる進化のごきかぶり
街溽暑あんこ禿げたる串団子
なよやかな葉にででむしのゼログラム
斑猫や口で説明できぬ道
収縮をしさうな枇杷の黒き尻
滑らかにこの国をゆく蜥蜴かな

内野義悠「薬効」

小林恭二 推薦 第三席 第8回円錐新鋭作品賞

起き抜けの水ふくろふと分け合はむ
舌禍はや忘れ車窓をすべる雪
感光の鶴のうらがはにも妬心
凝血のまぎは狐火紛れたり
夜伽せむまなじりに遠火事を留め
瀬音まづ朝寝の身ぬち明るくす
脈拍をふたつ飛ばしに梅ふふむ
古巣ふくらむ降り出しの雨呟けば
揺する木を掌の憶えゐし穀雨かな
花篝ふつふつ文字は疎となりぬ
うすものやめぐりてみづにみづのおと
見晴らしを息がつづいてソーダ水
西日まで舵輪回せば白き午後
スケジュール埋めよ天使魚濁らせよ
未練縷々玉虫が濡れたてのいろ
たどりゆく履歴白桃からしづく
穴惑ひ手燭に奇書のつまびらか
私信眠らせ烏瓜揺すりゐる
薬効のするどく小鳥だけは来る
ゆく秋や壁紙に爪痕を引く