ミテイナリコ「ドードーの生成」

今泉康弘推薦 第二席 第9回円錐新鋭作品賞

正義も大義も泣く亡く椋名無し
異彩放つ委細承知の黒犀
性技も大儀も鳴く哭く剥くな梨
生き大河逝き他意に生る有機体
銅貨しら挿花葱花な僧nano歌
雲海へ羽化雨花浮かぶ浮かん無理
丼に身振り手振りの朝煙
空蝉 暗鬱せ陰鬱せ現人
春鬻ぐ久方振りにハル子音
苟も良くも悪くも意味じ蜘蛛
句意殺す成句は郁郁青青と
鈍鈍と鈍い狼煙にい呪う蚊
正解の無き眼界に虚数解
cutして西陽を刺して死出の道
息止まり閾値を啜り生きてiLL
濃艷な身の毛の与奪脳炎に
語句中に極光極極微かに
空也和讚食うや食わずの和三盆
独逸語の都々逸何時か書く何時か
ウイグル自治区権利人類の 鷽

おおにしなお「うまれるまでの花わすれ」

今泉康弘推薦 第三席 第9回円錐新鋭作品賞

ぱせりのこさずこれまでのいのちの忌
れーこんふとらせまだほうようの薔薇がある
幽霊 恋の可能性で不可侵の心臓
化けて出ないのうつし世の百合釣りながら
にくたいのさばる残暑の街をすりむいて
ねーまだたましい、? 十月十日を足らず秋
おせわひつよう花野にひかる出生日 
柚子の庭未明の喃語ひろいあげ
からだすくわれしぐるるこども部屋
雪から失くしてかなもなみだも憶えたよ
えーたん最北端の花ゆれながらまたえーたん
うまれたね朧の部屋をふるえつつ    
ぼうぜんじしつ いつまで春に置きっぱなし
はごろもじゃすみんよくねむれたらたべる雲
なつやすみときどき新鮮 ふ とう こう
秋の海ふつうの花をみくだして 
いつか母体になれない母体 スコーンめぐる
まぜるときミルクにつゆくさのおいのり
命脈を言葉を露にみとめる日
ふれればいいよ産着の花にもういちど

伊丹啓子 逃げ水を追って

選評 第9回円錐新鋭作品賞

 「円錐」は進取の気性を持った俳句同人誌だ。そして何よりも本誌を特徴づけているのは、容赦のない批評文と深く突き詰めた論調ではないかと感じている。同誌で今年も又、第九回「円錐」新鋭作品賞が設けられた。ご応募くださった六十九名の皆様に感謝申し上げたい。
さて今年の選者が私では力不足の感を免れない。だが、「円錐」誌創刊者の故澤好摩氏と若き日に友人だったという縁でご依頼いただいたゆえご海容願いたい。
 賞の名前を「逃げ水賞」と名付けたい。逃げ水は近づくと先へ先へと逃げてしまう。つまり見果てぬ夢を意味している。文芸(俳句も文芸の一種)とは見果てぬ夢を追い続けることではないだろうか、という意味で名付けた。

 「逃げ水賞」推薦第一位に頂いたのは有瀬こうこさんの「転調」。
 オパールに水の転調四月来る 
 第一印象が洒落た句だと感じた。オパールは堆積岩や火成岩の割れ目に珪酸の粒子が積み重なり、1500~3000年前に形成された石である。水分を含み、結晶構造を持たない唯一の宝石だそうだ。そしてぶつけると割れる宝石でもある。オパール自体がいろいろの色彩を含んでいるが、光線の加減によって色が変化する。夜の街中に点滅するネオンサインのようだ。色彩の変化する宝石と捉え、〈オパールに水の転調〉と詠んだ上五・中七の表現がすばらしいと思った。下五も明るい感じの〈四月来る〉でぴったり決まった。オパールは十月の誕生石である。だから〈十月来る〉とか〈神無月〉ではもちろんだめだ。付き過ぎになるから。
 桜蕊降る仮縫ひのままでいい 
も選者好みの句だ。〈桜蕊降る〉と〈仮縫いのままでいい〉は二者衝撃をさせた作句法である。この二者衝撃がとてもいい。満開の桜とか散る桜とかではなく、桜の開花が終わる後の〈桜蕊降る〉がいかにもふさわしい。なぜかと説明するのは難しいが、洋服の仮縫いという中途半端な状態で、作者は桜の蕊のように立たされて着せ替え人形になっている。そんな様子は満開の桜には似合わないだろう。繊細で若やいだ感性を持つ作者とお見受けした。選者も若い頃には仮縫いしてもらって洋服を仕立てたことがあったのを思い出した。その他、〈馬車が来ない月下美人が閉ぢてしまふ〉や〈火を恋へば元素記号にないYes〉や〈冬の蝶万華鏡から逃げてきた〉の句々も秀逸だと思った。

 「逃げ水賞」推薦第二位に頂いたのは花島照子さんの「音楽が終わる」。
 ひらかれて本に扉や百千鳥
 本(文庫本は別として)には扉がある。本に扉があるのは普通のことだが、選者は本に関わる仕事をしてきたので掲句に惹かれてしまった。三橋敏雄氏の有名な句に〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉があるが、完璧な句だと思う。三橋氏の句からは、作者がデッキで天金の書物を開いている状景がありありと目に入って来るのだ。それに比べると、本を開くという状況は同じでも、掲句は三橋氏の句よりは状景が鮮やかでない。下五に〈百千鳥〉を持ってきたのがちょっと古い感覚にも思える。いっそのこと、突拍子もない下五を持ってきたなら前衛的な句になったかも知れないのに、と惜しい。
 ベランダは箱舟なのにひとりきり
の句は状景がよく解る。ベランダを箱舟に例えたのは詩的だ。そのベランダが海に近い家ならば、津波が起これば飲み込まれる恐れがあるだろう。もしそうならば、作者は他の動物たちを一緒に乗せてあげて欲しい。だが掲句は街中のマンションのベランダなのだろうと推測する。〈ひとりきり〉は作者の孤独感を詠んでいるのだ。詩的な孤独感である。
 ぼた雪とこれから音楽がおわる
 作者はこの新作二十句に「音楽がおわる」と題しておられるから掲句への思い入れが強いのだろう。広辞苑で調べると、〈ぼた雪〉とは「(新潟・福井・石川・山形・大分県などで)湿気のある大粒の雪、ぼたん雪。」とあった。ぼたん雪は、大きな雪片が牡丹の花びらのように降る雪である。そのような雪が降ってきて、〈これから音楽がおわる〉のだ。なぜか?
ぼた雪が家屋の屋根に重く積もるだろうから雪掻きもしなければならないだろう。だから音楽を聴いたり演奏したりしてはいられないと? 否、そんなふうに因果関係で解釈してしまうと俳句(詩)にならない。作者の詩的な気分なのである。ぼた雪を認識した作者は、〈これから音楽がおわる〉と感じたのだ。あくまで作者の内的感性の問題なのだ。作者のそのような感性に共感できるかどうかが、掲句を秀句と捉えるかどうかの分かれ目になるだろう。

 「逃げ水賞」推薦第三位に頂いたのは、山本絲人さんの「手の国」。
 手の国の聾学校はしぐれゆく
 が一句目にあり、「手の国」が題名に選ばれた理由がよく解る。〈母の母校も手話使う〉の句とか、〈聞こえない姉と一緒や〉の句もあるから、作者の母君か姉上が手話の人なのだろうか。作者の実情は作品の質に無関係なことかも知れないが、連作全体を「手の国」と名付けられた思い入れの深さから勘ぐってしまった。
 手の国の聾学校はしぐれゆく
 〈聾学校を〉〈手の国〉と表現された作者。適切な名づけ方だ。と同時に、二十句全部に「しぐれ」あるいは「時雨」という言葉が挿入されている。なので、選者は作者が〈手の国〉と〈時雨〉を不可分のように捉えておられるように感じた。時雨は晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする雨。古来侘しいものとして詩歌に多く詠まれた。古来よりの時雨の本意をそのまま受け取れば、聞こえない人は侘しい、という意味になってしまう。その中で、明るい感じの次の句々に惹かれた。

 ひと時雨読唇術の恋をして
  時雨止み手話の告白される距離

一句目の時雨はひと時で止んだのだ。〈読唇術の恋をして〉なんて、秘密の合図を送り合う探偵小説中の人物みたいだ。そして掲二句目の〈手話の告白される距離〉の表現は上手いと思った。なるほど、手話をはっきり読み取ろうとすると相手と密接していては不都合だ。寄り添い合う恋人同士の会話では不便かも知れない。障がいを大っぴらにして生きられる時代になったとは言え、「手の国」の住人に「時雨」の言葉が沿うて来る。それを外せないのだろうか、とも思った。

 次、第一~三位の入選作品以外から。感銘を受けた句を五句挙げさせて頂く。
 かぷかぷと笑う沈没船の舵
 杢いう子さんの「テラリウム」より。
沈没船だから海底の様子だ。〈かぷかぷ〉のオノマトペが、傷んで緩んだ舵の様子を表現していて面白い。舵の不調で船が沈んだのかも知れないのに、当事者(舵)はあっけらかんと笑っている。そこに諧謔味を感じた。
 ケセランパサラン十一月の開架にゐる
 斎建大さんの「導火線」より。〈ケセランパセラン〉とは、たんぽぽの絮毛のようなふわふわした謎の生物のこと。幸せを呼ぶと伝えられる。それが〈十一月の開架〉に居た。秋も深まった頃の書架にそれを見つけた時、作者は不意に幸せな充足感に満たされたのだ。謎の生物の実体は埃だったのかも知れないが。面白い句だと感じた。
 宇宙少し剥がれてネモフィラの世界 
 加藤右馬さんの「愁思いま」より。ネモフィラは青い花。ひたち海浜公園に絨毯を敷き詰めたようにネモフィラが咲いている画像は美しい。その景を〈宇宙少し剥がれて〉と表現したところが良い。ネモフィラの花の色は青空からもらった色彩だったのだ。
 さびしさの単位はヘルツ鯨鳴く
 奈良香里さんの「鯨鳴く」より。ヘルツは周波数の単位でHzと書く。鯨はヘルツで鳴き交していたのか。Hzでは人間に聴こえないはずだ。例えば或る人が「さびしいよ」と声にだして言ってみても、その内実が相手に伝わるかどうか判らない。その意味で、〈さびしさの単位はヘルツ〉と作者は表現した。上手い、と思った。
 液晶ぜんぶひびわれて一寸セクシー
 森田かなさんの「定期便」より。スマホかパソコンかテレビの液晶がひび割れてしまったのだ。残念な気持ちや腹立ちの前に、作者はその事態を〈一寸セクシー〉と表現した。そこで、選者はマルセル・デュシャンの作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称:大ガラス)を想起し、その美術作品に準ずるような感じを受けた。シュールな句として頂いた。

 これ以外にも作者独自の感性で表現され、目を引く作品が多々あったが、選者の好みで選ばせて頂いた。
 次年度の円錐新鋭作品賞へも多くの方々からのご応募をお待ちしている。

山田耕司 多様性 その森へ

選評 第9回円錐新鋭作品賞

 読みに、読む。
 ひたすら、読む。
 読めば読むほど、それぞれの作家が見ようとしている世界に心惹かれていく。
 俳句とは、何か。
 それがあらかじめ決まっていて、そのガイドラインに基づいて審査をする場合もあるのだろう。しかし、多くの方々から寄せられる作品に接するのは、俳句とは果たしてなんなのだろうという根源的な問いを自らの中に燃え立たせる営みでもある。
 賞というスタイルで顕彰をさせていただくが、これは、詠み、そして、読むという動きを社会において活性化させるための契機である側面が強い。第9回を数える円錐新鋭作品賞。多くの方々から多様な作品をお預かりした。そのことへの感謝を申し上げるとともに、果敢に挑戦してくださる行為そのものが、そしてその作品の多様性そのものが、俳句の可能性を体現しているように思うところである(審査とは、審査員の価値観の偏りぶりによって営まれるもの。今回、賞に該当しなかった作品群も、俳句として退けられたわけではない)。そして、審査させていただく立場だからこそ一望できる森であるかのような多様な作品群を前にした感慨を、あらためて冒頭に述べさせていただきたかったのである。
 特別審査員としてお力をいただいたのは、伊丹啓子さん。澤好摩の第一句集『最後の走者』(一九六九年刊)の装丁は、伊丹さんによるものである。ご尽力に、この場を借りて感謝を捧げたい。

 白桃賞
 桃園ユキチ「発熱」。
 日傘畳む鳩尾へ柄を突き立てて
 無意識の行為。それに、気づく。それを、描く。
 ガイドラインとしては理解できるが、やってみるとなかなか難しい。書くプロセスにおいて「意味」の重たさが付け加えられてしまうことがあるからだ。
 俳句表現を利用して、何らかのメッセージを伝えたいという意図があるならば、そうした「意味」こそが最重要なコンテンツとなるのであろう。ともあれ、「意味」が重たくなればなるほど、俳句作品としての香気が乏しくなる傾向があるのは、厄介なところだ。
 日傘を、畳む。鳩尾(みぞおち)に、傘の柄(え)を突き立てているのは、片手で畳もうとしてるからなのだろう。炎暑の外界から、ひんやりした屋内へ。無意識な身体のふるまいを活写する事で、その折の心の動きまで読者の想像に働きかける。無意識の行為を捉え、表現する。その筆致の確かさが、桃園ユキチの根を支えているようだ。「口笛にならぬ息あり青葡萄」などにも、その資質を見る。
 「宵寒や水平線は下まぶた」「霜焼の手は海羊歯を飼っている」などでの見立ても、面白い。「切っ先にごぶりと海を吐く海鼠」の着眼も興味深い。それらの面白さは、「下まぶた」「海羊歯」「海を吐く」などの知的な認識によってもたらされているわけだが、こうした面白がり方は、俳句としての香気を減退させかねないものだ。非凡なる着想力があるからこその表現だが、桃園ユキチには、俳句作品の香気をより高く表現する才能があるように思われる。注目し続けたい。

 二席
 ふるてい「絵の全容」。
 もう音のせぬほど踏まれきる落葉
 絵を見ている。美術館のような環境にいる。そんな気配の連作。
 連作というと、作者の身体は一定の環境に置かれ、時間もその折に拘束されるのが一般的である。時に、この二十句は、春から夏、秋を経て冬へと季節を移動している。絵画鑑賞をしている身体が一挙に四季を貫くのだとしたら、この四季は身体の置かれた環境ではなく仮構されたものとなる。一般的な句集に見られる四季の移ろい順の句の並びを一つの回廊(ガレリア)と見立て、そこをあえてバーチャルに駆け抜けてみせる試みをこの二十句に見る。いきおい、そこには、季語とは何であるか、また、俳句習慣としての季節の整序とは何か、という問いかけを見届けることもできよう。
 慣習的なふるまいを相対化する試みを背景におけば、「もう音のせぬほどに踏まれきる」ものは、美術館前の落葉であると同時に、無意識な反復によって失われた詩的感動を指すのかもしれない。
 意識的な試みであるからこそ、季語に対する批評性を作品にも期待してしまうが、そうなると添えもの的季語のあしらいがアラとして見えてしまってもったいない。「春愁い三歩ほど退き絵の全容」における「春愁い」や「題を見てまた絵の細部鳥の恋」における「鳥の恋」などが、それだ。「彫像のどれも首なき木の芽時」などのアイロニカルな語の斡旋を見るにつけ、作者の力量と企画力がもたらす次なる挑戦に期待してやまない。

 三席
 紺乃ひつじ「三種類」
 トルソーの担がれてゆく聖夜かな
 ツリーを囲む。十字架の上の人の姿を仰ぎ見る。そして、あらたまったような気分になる。
 物質でありつつ人間の存在を映す存在。トルソーも、また。それが、担がれて聖夜から退場させられるのである。そこには、俳句作品として整えられたおかしみと悲しみが漂う。書いた言葉が、読者にどのように染み込むのかを見届ける眼差しが、この表現の奥にある。
 「すれ違ふくらげが透けてゐる海月」における「くらげ」と「海月」の表記の違いも、自身の作品に対しての他者からの読みを想定しての配慮かと思う。
 こうした配慮は、句を小さくまとめてしまう傾向も含む。小さくならないように、かつ、読みつつ書く行為を重ねる。そこらへんのサジ加減は難しいが、さらなる表現へつながる可能性を作品に見出した次第。

 八十八夜仰向けに臍拭ひをり
           赤木真理

 臍に溜まった液体を、仰向けのままに拭う。そのふるまいは、介護の一所作であるのかエロティックな状況での一場面なのかはわからない。米を作るための多くのプロセスを連想させる「八十八夜」を置くことで、季節感を伝えるだけではなく、多くの事柄の連続としてひとつの行為を理解する視線が読者にもたらされる。見せられている言葉のフレームの外側へと、身体のふるまいや日常の連続を想像させられることで、一句は俳句としての重みを獲得する。それは、意味の世界における情報の重みとは異質のもの。
 季語の作用によって、水分を湛えたうつろとして、水田と仰向けの臍とがイメージの上で重なり合う効果もあるだろう。散文の文脈では拾いきれない香気を書き留める作家の志向に感銘を受けた。 

 ぎよく将のうらはつるんと寒あける
             南方日午

 将棋の駒。それぞれ、裏にはそれなりの文字が刻まれている。王将と玉将とをのぞいては。それで「うらはつるんと」。
 され、この句。「つるんと寒開ける」という文脈でも読むことができる。
 どちらにしようか。そこに、ちょっとしたシコリが生まれる。
 意味の上では、「将棋の駒の裏側に何も書かれていないようにすっきりとあっさりと寒さが移り変わって春へと進みはじめたよ」ということなのだろう。ともあれ、この「つるんと」の行方を思いつつ、このシコリに立ち止まってみるのも俳句としての遊び方のひとつ。
 修飾と被修飾との関係が曖昧になっている作品は、混乱を招くばかりで面白みに欠ける場合が多い。ともあれ、この句の「つるんと」のシコリは、寒があける折のまろやかな不連続ぶりを感じさせてくれるようにも思う。
 「ぎよく将」「うらはつるんと」というひらがなの連なりも、意味の世界だけではなく音声や構造においてメタ的に遊ぶことを誘導しているようでもある。

 うすらひや鳥の記憶の中にパン
         クズウジュンイチ

 テーマは、「うすらひ」。ともあれ、作者がイメージしているのは、薄氷がある環境。おそらくは、ありふれた道。朝の光の中で、ところどころの水たまりなどが凍ってしまっている状況。鳥が降り立つような道。そんなふうに読んだ。
 薄い氷がそのままに残されている状況は、同時に、なんらかの出来事が起きていないということを示してもいる。
 何もないということ、その集合を印象づけるにあたって補集合を示してみせるという技法には、このような例がある。
 見渡せば花も紅葉もなかりけり
 浦の苫屋の秋の夕暮   藤原定家
 「浦の苫屋の秋の夕暮」。その何もなさを際立たせるのは、「花や紅葉」の幻影である。
 その道でついばんだパンくず。その記憶を補集合に置くことで、集合としての何もない道のありようが示されている。
 それが、「うすらひ」の清潔にして貧しい存在として読者の中に立ち現れる仕掛けとして機能している様にも思う。
 切字の「や」はテーマを掲げる修辞。そして、そのテーマにおいて連想させられる事柄を呼び寄せる修辞。連想させられるイメージのうちで、テーマからより遠くまで飛躍できた時に、「や」の詩的パワーは輝きを増すようである。 

 痴話喧嘩南瓜を煮たる火を弱め
            山本たくみ

 ちょっと厄介な展開になるかもしれない。だから、焦げ付かないように南瓜を煮る鍋への火を抑えたのである。そうは言っても日常生活を止めることはしない。火を消したりはしない。その程度の「痴話喧嘩」なのである。
 無意識のふるまいを切り出すことで、複雑な状況を鮮明に描き出す手腕。最後を動詞連用形で言い納め、冒頭に読みが循環させる配慮も、俳句作品としての安定につながっている。

 ナゲットのソース余りて帰り花
             木村陽翔

 ナゲットが主であるならば、ソースは従。主従において、従が余る。本来の季節ではなく、つまり、植物の本能から逸脱しているような「帰り花」と、その余剰への感覚とを結びつけるセンスの妙。
 「帰り花」を老いの中での心のちょっとした華やぎに結びつける境涯的な作品は世に散見されるところであるが、掲句には、俳句的なイメージの飛躍へのコンタクトが健やかに示されている。その新鮮さにも惹かれた。

桃園ユキチ「発熱」

白桃賞(山田耕司推薦 第9回円錐新鋭作品賞)

獣医師が赤ちゃん言葉しずり雪
縄跳びの少女身体を持て余す
手のひらに馬の脈拍花薺
蝶々や立てばまどかに視野の欠け
口内にミルクの粘り春の庭
苗床やくすぐるように水をまく
病院を包囲している夜の躑躅
人の手に小さき水掻き草いきれ
河童忌の胃の腑が肉を押し返す
日傘畳む鳩尾へ柄を突き立てて
口笛にならぬ息あり青葡萄
昼に寝て六畳広し棗の実
小鳥来る波の欠片を鳴らしつつ
たくあんの匂いの電車秋日照
今年米炉端に貝の騒がしき
宵寒や水平線は下まぶた
切っ先にごぶりと海を吐く海鼠
空風や裂け目のごとく口があり
耳奥に熱のさざめき冬落暉
霜焼の手は海羊歯を飼っている

105号 出版が遅れています

第9回円錐新鋭作品賞の結果を掲載した105号の出来上がりが遅れております。印刷所での作業が続いている状況です。

発行所に本誌が届き次第、速やかに発送作業に移ります。新鋭作品賞に応募してくださった方には、もれなく郵送しますので、しばしお待ちください。

発送に際しては、このサイトにてお知らせします。また、Xなどでも告知します。発送作業に合わせて、このホームページにおいても賞の結果がお読みいただけるようにします。ひきつづきどうぞよろしくお願いします。

円錐発行人 山田耕司

円錐104号 

2025年1月30日刊

展展望望

安里琉太 (特別寄稿)
佐藤りえ (特別寄稿)
和久井幹雄
大川原弘樹

特別作品

味元昭次
横山康夫
原田もと子
山本雅子
摂氏華氏

評論

七月七日の詩学 天の川の巻
今泉康弘

新連載 ひっちはいく
摂氏華氏

バックミラー

矢上新八
後藤秀治
立木司
神山刻

第九回円錐新鋭作品賞募集のお知らせ

●未発表の俳句作品20句をお送りください(多行作品は10句)。 作品にはタイトルをつけてください。

●受付開始 2025年1月15日

●応募締切 2025年2月15日

●年齢・俳句歴の制限はありません。

●応募料・審査料などの経費は一切必要ありません。ご応募くださった作品の著作権は作者に帰属します。

●ご応募の際には、お名前(筆名・本名)、ご住所、メールアドレスなどの連絡先をお書き添えください。折り返し、編集部より連絡申し上げます。

●受賞作品は「円錐」105号(2025年4月末日刊行予定)に掲載。

●選者
伊丹啓子(特別選者)
山田耕司
今泉康弘

宛先 円錐編集部 ensuihaiku@gmail.com

ホームページ http://ooburoshiki.com/haikuensui/
※上記HPにて、今までの受賞作品・審査コメントなどをご覧いただけます。

第8回 円錐新鋭作品賞

荒野賞 (小林恭二推薦)

佐々木歩 「たましひの器」    読む

白桃賞(山田耕司推薦)

青木ともじ 「篝」        読む

白泉賞(今泉康弘推薦)

織田亮太朗  「■■者」     読む

推薦作品(一句推薦)          読む

小林恭二推薦 第二席  涼野海音「雪女」     読む
小林恭二推薦 第三席  内野義悠「薬効」     読む

山田耕司推薦 第二席  本多遊子「永遠の三」   読む
山田耕司推薦 第三席  山本たくみ「着席せよ」  読む

今泉康弘推薦 第二席  加藤閑「無垢と爛熟」   読む
今泉康弘推薦 第三席  ミテイナリコ「Like 唖 排句 Gocco(ご挨拶ver1.0)」 読む

小林恭二 選評 「荒野に咲く花々」            読む
山田耕司 選評 「俳句として書き上げること」       読む
今泉康弘 選評 「我らにとって型とは何か」        読む

第8回円錐新鋭作品賞  編集部より           読む

第8回円錐新鋭作品賞 編集部より

第8回です。

今回は72編のご応募をいただきました(第1回47編、第2回40編、第3回58編、第4回46編、第5回67編、第6回63編、第7回79編)。

2023年7月に、澤好摩が急逝。新鋭作品賞の開催のみならず、弊誌「円錐」の継続についても見直さなければならないような大事件でした。
同人たちは、集い、話をしました。そして、円錐を発行し続けることに決めました。
新鋭作品賞も、続けます。
俳句を書く人の発表の場、その多様性に寄与するために。そして、まだ見ぬ優れた一句に出会うために。「新鋭作品賞、もうちょっと続けてみよう」。澤さんは、亡くなる前の年に山田にそのように告げていました。

特別審査員として、小林恭二さんをお迎えすることができました。
合計1,420句(20句70編、多行10句2編)を読み評価するというお引き受けくださいましたことに、心から感謝申し上げます。

募集条件は、未発表の20句(多行作品は10句)。作者の俳句歴や年齢などの条件、一切不問。審査の上、20句を対象に、第一席から第三席までを選出。句単位での顕彰は、5句。
ご応募くださいました皆様、そして、募集情報の拡散などにご尽力くださいました皆様に、あらためて感謝と敬意を捧げたく存じます。                      (円錐編集部・山田)