選評 第9回円錐新鋭作品賞
読みに、読む。
ひたすら、読む。
読めば読むほど、それぞれの作家が見ようとしている世界に心惹かれていく。
俳句とは、何か。
それがあらかじめ決まっていて、そのガイドラインに基づいて審査をする場合もあるのだろう。しかし、多くの方々から寄せられる作品に接するのは、俳句とは果たしてなんなのだろうという根源的な問いを自らの中に燃え立たせる営みでもある。
賞というスタイルで顕彰をさせていただくが、これは、詠み、そして、読むという動きを社会において活性化させるための契機である側面が強い。第9回を数える円錐新鋭作品賞。多くの方々から多様な作品をお預かりした。そのことへの感謝を申し上げるとともに、果敢に挑戦してくださる行為そのものが、そしてその作品の多様性そのものが、俳句の可能性を体現しているように思うところである(審査とは、審査員の価値観の偏りぶりによって営まれるもの。今回、賞に該当しなかった作品群も、俳句として退けられたわけではない)。そして、審査させていただく立場だからこそ一望できる森であるかのような多様な作品群を前にした感慨を、あらためて冒頭に述べさせていただきたかったのである。
特別審査員としてお力をいただいたのは、伊丹啓子さん。澤好摩の第一句集『最後の走者』(一九六九年刊)の装丁は、伊丹さんによるものである。ご尽力に、この場を借りて感謝を捧げたい。
白桃賞
桃園ユキチ「発熱」。
日傘畳む鳩尾へ柄を突き立てて
無意識の行為。それに、気づく。それを、描く。
ガイドラインとしては理解できるが、やってみるとなかなか難しい。書くプロセスにおいて「意味」の重たさが付け加えられてしまうことがあるからだ。
俳句表現を利用して、何らかのメッセージを伝えたいという意図があるならば、そうした「意味」こそが最重要なコンテンツとなるのであろう。ともあれ、「意味」が重たくなればなるほど、俳句作品としての香気が乏しくなる傾向があるのは、厄介なところだ。
日傘を、畳む。鳩尾(みぞおち)に、傘の柄(え)を突き立てているのは、片手で畳もうとしてるからなのだろう。炎暑の外界から、ひんやりした屋内へ。無意識な身体のふるまいを活写する事で、その折の心の動きまで読者の想像に働きかける。無意識の行為を捉え、表現する。その筆致の確かさが、桃園ユキチの根を支えているようだ。「口笛にならぬ息あり青葡萄」などにも、その資質を見る。
「宵寒や水平線は下まぶた」「霜焼の手は海羊歯を飼っている」などでの見立ても、面白い。「切っ先にごぶりと海を吐く海鼠」の着眼も興味深い。それらの面白さは、「下まぶた」「海羊歯」「海を吐く」などの知的な認識によってもたらされているわけだが、こうした面白がり方は、俳句としての香気を減退させかねないものだ。非凡なる着想力があるからこその表現だが、桃園ユキチには、俳句作品の香気をより高く表現する才能があるように思われる。注目し続けたい。
二席
ふるてい「絵の全容」。
もう音のせぬほど踏まれきる落葉
絵を見ている。美術館のような環境にいる。そんな気配の連作。
連作というと、作者の身体は一定の環境に置かれ、時間もその折に拘束されるのが一般的である。時に、この二十句は、春から夏、秋を経て冬へと季節を移動している。絵画鑑賞をしている身体が一挙に四季を貫くのだとしたら、この四季は身体の置かれた環境ではなく仮構されたものとなる。一般的な句集に見られる四季の移ろい順の句の並びを一つの回廊(ガレリア)と見立て、そこをあえてバーチャルに駆け抜けてみせる試みをこの二十句に見る。いきおい、そこには、季語とは何であるか、また、俳句習慣としての季節の整序とは何か、という問いかけを見届けることもできよう。
慣習的なふるまいを相対化する試みを背景におけば、「もう音のせぬほどに踏まれきる」ものは、美術館前の落葉であると同時に、無意識な反復によって失われた詩的感動を指すのかもしれない。
意識的な試みであるからこそ、季語に対する批評性を作品にも期待してしまうが、そうなると添えもの的季語のあしらいがアラとして見えてしまってもったいない。「春愁い三歩ほど退き絵の全容」における「春愁い」や「題を見てまた絵の細部鳥の恋」における「鳥の恋」などが、それだ。「彫像のどれも首なき木の芽時」などのアイロニカルな語の斡旋を見るにつけ、作者の力量と企画力がもたらす次なる挑戦に期待してやまない。
三席
紺乃ひつじ「三種類」
トルソーの担がれてゆく聖夜かな
ツリーを囲む。十字架の上の人の姿を仰ぎ見る。そして、あらたまったような気分になる。
物質でありつつ人間の存在を映す存在。トルソーも、また。それが、担がれて聖夜から退場させられるのである。そこには、俳句作品として整えられたおかしみと悲しみが漂う。書いた言葉が、読者にどのように染み込むのかを見届ける眼差しが、この表現の奥にある。
「すれ違ふくらげが透けてゐる海月」における「くらげ」と「海月」の表記の違いも、自身の作品に対しての他者からの読みを想定しての配慮かと思う。
こうした配慮は、句を小さくまとめてしまう傾向も含む。小さくならないように、かつ、読みつつ書く行為を重ねる。そこらへんのサジ加減は難しいが、さらなる表現へつながる可能性を作品に見出した次第。
八十八夜仰向けに臍拭ひをり
赤木真理
臍に溜まった液体を、仰向けのままに拭う。そのふるまいは、介護の一所作であるのかエロティックな状況での一場面なのかはわからない。米を作るための多くのプロセスを連想させる「八十八夜」を置くことで、季節感を伝えるだけではなく、多くの事柄の連続としてひとつの行為を理解する視線が読者にもたらされる。見せられている言葉のフレームの外側へと、身体のふるまいや日常の連続を想像させられることで、一句は俳句としての重みを獲得する。それは、意味の世界における情報の重みとは異質のもの。
季語の作用によって、水分を湛えたうつろとして、水田と仰向けの臍とがイメージの上で重なり合う効果もあるだろう。散文の文脈では拾いきれない香気を書き留める作家の志向に感銘を受けた。
ぎよく将のうらはつるんと寒あける
南方日午
将棋の駒。それぞれ、裏にはそれなりの文字が刻まれている。王将と玉将とをのぞいては。それで「うらはつるんと」。
され、この句。「つるんと寒開ける」という文脈でも読むことができる。
どちらにしようか。そこに、ちょっとしたシコリが生まれる。
意味の上では、「将棋の駒の裏側に何も書かれていないようにすっきりとあっさりと寒さが移り変わって春へと進みはじめたよ」ということなのだろう。ともあれ、この「つるんと」の行方を思いつつ、このシコリに立ち止まってみるのも俳句としての遊び方のひとつ。
修飾と被修飾との関係が曖昧になっている作品は、混乱を招くばかりで面白みに欠ける場合が多い。ともあれ、この句の「つるんと」のシコリは、寒があける折のまろやかな不連続ぶりを感じさせてくれるようにも思う。
「ぎよく将」「うらはつるんと」というひらがなの連なりも、意味の世界だけではなく音声や構造においてメタ的に遊ぶことを誘導しているようでもある。
うすらひや鳥の記憶の中にパン
クズウジュンイチ
テーマは、「うすらひ」。ともあれ、作者がイメージしているのは、薄氷がある環境。おそらくは、ありふれた道。朝の光の中で、ところどころの水たまりなどが凍ってしまっている状況。鳥が降り立つような道。そんなふうに読んだ。
薄い氷がそのままに残されている状況は、同時に、なんらかの出来事が起きていないということを示してもいる。
何もないということ、その集合を印象づけるにあたって補集合を示してみせるという技法には、このような例がある。
見渡せば花も紅葉もなかりけり
浦の苫屋の秋の夕暮 藤原定家
「浦の苫屋の秋の夕暮」。その何もなさを際立たせるのは、「花や紅葉」の幻影である。
その道でついばんだパンくず。その記憶を補集合に置くことで、集合としての何もない道のありようが示されている。
それが、「うすらひ」の清潔にして貧しい存在として読者の中に立ち現れる仕掛けとして機能している様にも思う。
切字の「や」はテーマを掲げる修辞。そして、そのテーマにおいて連想させられる事柄を呼び寄せる修辞。連想させられるイメージのうちで、テーマからより遠くまで飛躍できた時に、「や」の詩的パワーは輝きを増すようである。
痴話喧嘩南瓜を煮たる火を弱め
山本たくみ
ちょっと厄介な展開になるかもしれない。だから、焦げ付かないように南瓜を煮る鍋への火を抑えたのである。そうは言っても日常生活を止めることはしない。火を消したりはしない。その程度の「痴話喧嘩」なのである。
無意識のふるまいを切り出すことで、複雑な状況を鮮明に描き出す手腕。最後を動詞連用形で言い納め、冒頭に読みが循環させる配慮も、俳句作品としての安定につながっている。
ナゲットのソース余りて帰り花
木村陽翔
ナゲットが主であるならば、ソースは従。主従において、従が余る。本来の季節ではなく、つまり、植物の本能から逸脱しているような「帰り花」と、その余剰への感覚とを結びつけるセンスの妙。
「帰り花」を老いの中での心のちょっとした華やぎに結びつける境涯的な作品は世に散見されるところであるが、掲句には、俳句的なイメージの飛躍へのコンタクトが健やかに示されている。その新鮮さにも惹かれた。