伊丹啓子 逃げ水を追って

選評 第9回円錐新鋭作品賞

 「円錐」は進取の気性を持った俳句同人誌だ。そして何よりも本誌を特徴づけているのは、容赦のない批評文と深く突き詰めた論調ではないかと感じている。同誌で今年も又、第九回「円錐」新鋭作品賞が設けられた。ご応募くださった六十九名の皆様に感謝申し上げたい。
さて今年の選者が私では力不足の感を免れない。だが、「円錐」誌創刊者の故澤好摩氏と若き日に友人だったという縁でご依頼いただいたゆえご海容願いたい。
 賞の名前を「逃げ水賞」と名付けたい。逃げ水は近づくと先へ先へと逃げてしまう。つまり見果てぬ夢を意味している。文芸(俳句も文芸の一種)とは見果てぬ夢を追い続けることではないだろうか、という意味で名付けた。

 「逃げ水賞」推薦第一位に頂いたのは有瀬こうこさんの「転調」。
 オパールに水の転調四月来る 
 第一印象が洒落た句だと感じた。オパールは堆積岩や火成岩の割れ目に珪酸の粒子が積み重なり、1500~3000年前に形成された石である。水分を含み、結晶構造を持たない唯一の宝石だそうだ。そしてぶつけると割れる宝石でもある。オパール自体がいろいろの色彩を含んでいるが、光線の加減によって色が変化する。夜の街中に点滅するネオンサインのようだ。色彩の変化する宝石と捉え、〈オパールに水の転調〉と詠んだ上五・中七の表現がすばらしいと思った。下五も明るい感じの〈四月来る〉でぴったり決まった。オパールは十月の誕生石である。だから〈十月来る〉とか〈神無月〉ではもちろんだめだ。付き過ぎになるから。
 桜蕊降る仮縫ひのままでいい 
も選者好みの句だ。〈桜蕊降る〉と〈仮縫いのままでいい〉は二者衝撃をさせた作句法である。この二者衝撃がとてもいい。満開の桜とか散る桜とかではなく、桜の開花が終わる後の〈桜蕊降る〉がいかにもふさわしい。なぜかと説明するのは難しいが、洋服の仮縫いという中途半端な状態で、作者は桜の蕊のように立たされて着せ替え人形になっている。そんな様子は満開の桜には似合わないだろう。繊細で若やいだ感性を持つ作者とお見受けした。選者も若い頃には仮縫いしてもらって洋服を仕立てたことがあったのを思い出した。その他、〈馬車が来ない月下美人が閉ぢてしまふ〉や〈火を恋へば元素記号にないYes〉や〈冬の蝶万華鏡から逃げてきた〉の句々も秀逸だと思った。

 「逃げ水賞」推薦第二位に頂いたのは花島照子さんの「音楽が終わる」。
 ひらかれて本に扉や百千鳥
 本(文庫本は別として)には扉がある。本に扉があるのは普通のことだが、選者は本に関わる仕事をしてきたので掲句に惹かれてしまった。三橋敏雄氏の有名な句に〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉があるが、完璧な句だと思う。三橋氏の句からは、作者がデッキで天金の書物を開いている状景がありありと目に入って来るのだ。それに比べると、本を開くという状況は同じでも、掲句は三橋氏の句よりは状景が鮮やかでない。下五に〈百千鳥〉を持ってきたのがちょっと古い感覚にも思える。いっそのこと、突拍子もない下五を持ってきたなら前衛的な句になったかも知れないのに、と惜しい。
 ベランダは箱舟なのにひとりきり
の句は状景がよく解る。ベランダを箱舟に例えたのは詩的だ。そのベランダが海に近い家ならば、津波が起これば飲み込まれる恐れがあるだろう。もしそうならば、作者は他の動物たちを一緒に乗せてあげて欲しい。だが掲句は街中のマンションのベランダなのだろうと推測する。〈ひとりきり〉は作者の孤独感を詠んでいるのだ。詩的な孤独感である。
 ぼた雪とこれから音楽がおわる
 作者はこの新作二十句に「音楽がおわる」と題しておられるから掲句への思い入れが強いのだろう。広辞苑で調べると、〈ぼた雪〉とは「(新潟・福井・石川・山形・大分県などで)湿気のある大粒の雪、ぼたん雪。」とあった。ぼたん雪は、大きな雪片が牡丹の花びらのように降る雪である。そのような雪が降ってきて、〈これから音楽がおわる〉のだ。なぜか?
ぼた雪が家屋の屋根に重く積もるだろうから雪掻きもしなければならないだろう。だから音楽を聴いたり演奏したりしてはいられないと? 否、そんなふうに因果関係で解釈してしまうと俳句(詩)にならない。作者の詩的な気分なのである。ぼた雪を認識した作者は、〈これから音楽がおわる〉と感じたのだ。あくまで作者の内的感性の問題なのだ。作者のそのような感性に共感できるかどうかが、掲句を秀句と捉えるかどうかの分かれ目になるだろう。

 「逃げ水賞」推薦第三位に頂いたのは、山本絲人さんの「手の国」。
 手の国の聾学校はしぐれゆく
 が一句目にあり、「手の国」が題名に選ばれた理由がよく解る。〈母の母校も手話使う〉の句とか、〈聞こえない姉と一緒や〉の句もあるから、作者の母君か姉上が手話の人なのだろうか。作者の実情は作品の質に無関係なことかも知れないが、連作全体を「手の国」と名付けられた思い入れの深さから勘ぐってしまった。
 手の国の聾学校はしぐれゆく
 〈聾学校を〉〈手の国〉と表現された作者。適切な名づけ方だ。と同時に、二十句全部に「しぐれ」あるいは「時雨」という言葉が挿入されている。なので、選者は作者が〈手の国〉と〈時雨〉を不可分のように捉えておられるように感じた。時雨は晩秋から初冬にかけて降ったり止んだりする雨。古来侘しいものとして詩歌に多く詠まれた。古来よりの時雨の本意をそのまま受け取れば、聞こえない人は侘しい、という意味になってしまう。その中で、明るい感じの次の句々に惹かれた。

 ひと時雨読唇術の恋をして
  時雨止み手話の告白される距離

一句目の時雨はひと時で止んだのだ。〈読唇術の恋をして〉なんて、秘密の合図を送り合う探偵小説中の人物みたいだ。そして掲二句目の〈手話の告白される距離〉の表現は上手いと思った。なるほど、手話をはっきり読み取ろうとすると相手と密接していては不都合だ。寄り添い合う恋人同士の会話では不便かも知れない。障がいを大っぴらにして生きられる時代になったとは言え、「手の国」の住人に「時雨」の言葉が沿うて来る。それを外せないのだろうか、とも思った。

 次、第一~三位の入選作品以外から。感銘を受けた句を五句挙げさせて頂く。
 かぷかぷと笑う沈没船の舵
 杢いう子さんの「テラリウム」より。
沈没船だから海底の様子だ。〈かぷかぷ〉のオノマトペが、傷んで緩んだ舵の様子を表現していて面白い。舵の不調で船が沈んだのかも知れないのに、当事者(舵)はあっけらかんと笑っている。そこに諧謔味を感じた。
 ケセランパサラン十一月の開架にゐる
 斎建大さんの「導火線」より。〈ケセランパセラン〉とは、たんぽぽの絮毛のようなふわふわした謎の生物のこと。幸せを呼ぶと伝えられる。それが〈十一月の開架〉に居た。秋も深まった頃の書架にそれを見つけた時、作者は不意に幸せな充足感に満たされたのだ。謎の生物の実体は埃だったのかも知れないが。面白い句だと感じた。
 宇宙少し剥がれてネモフィラの世界 
 加藤右馬さんの「愁思いま」より。ネモフィラは青い花。ひたち海浜公園に絨毯を敷き詰めたようにネモフィラが咲いている画像は美しい。その景を〈宇宙少し剥がれて〉と表現したところが良い。ネモフィラの花の色は青空からもらった色彩だったのだ。
 さびしさの単位はヘルツ鯨鳴く
 奈良香里さんの「鯨鳴く」より。ヘルツは周波数の単位でHzと書く。鯨はヘルツで鳴き交していたのか。Hzでは人間に聴こえないはずだ。例えば或る人が「さびしいよ」と声にだして言ってみても、その内実が相手に伝わるかどうか判らない。その意味で、〈さびしさの単位はヘルツ〉と作者は表現した。上手い、と思った。
 液晶ぜんぶひびわれて一寸セクシー
 森田かなさんの「定期便」より。スマホかパソコンかテレビの液晶がひび割れてしまったのだ。残念な気持ちや腹立ちの前に、作者はその事態を〈一寸セクシー〉と表現した。そこで、選者はマルセル・デュシャンの作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(通称:大ガラス)を想起し、その美術作品に準ずるような感じを受けた。シュールな句として頂いた。

 これ以外にも作者独自の感性で表現され、目を引く作品が多々あったが、選者の好みで選ばせて頂いた。
 次年度の円錐新鋭作品賞へも多くの方々からのご応募をお待ちしている。

山田耕司 多様性 その森へ

選評 第9回円錐新鋭作品賞

 読みに、読む。
 ひたすら、読む。
 読めば読むほど、それぞれの作家が見ようとしている世界に心惹かれていく。
 俳句とは、何か。
 それがあらかじめ決まっていて、そのガイドラインに基づいて審査をする場合もあるのだろう。しかし、多くの方々から寄せられる作品に接するのは、俳句とは果たしてなんなのだろうという根源的な問いを自らの中に燃え立たせる営みでもある。
 賞というスタイルで顕彰をさせていただくが、これは、詠み、そして、読むという動きを社会において活性化させるための契機である側面が強い。第9回を数える円錐新鋭作品賞。多くの方々から多様な作品をお預かりした。そのことへの感謝を申し上げるとともに、果敢に挑戦してくださる行為そのものが、そしてその作品の多様性そのものが、俳句の可能性を体現しているように思うところである(審査とは、審査員の価値観の偏りぶりによって営まれるもの。今回、賞に該当しなかった作品群も、俳句として退けられたわけではない)。そして、審査させていただく立場だからこそ一望できる森であるかのような多様な作品群を前にした感慨を、あらためて冒頭に述べさせていただきたかったのである。
 特別審査員としてお力をいただいたのは、伊丹啓子さん。澤好摩の第一句集『最後の走者』(一九六九年刊)の装丁は、伊丹さんによるものである。ご尽力に、この場を借りて感謝を捧げたい。

 白桃賞
 桃園ユキチ「発熱」。
 日傘畳む鳩尾へ柄を突き立てて
 無意識の行為。それに、気づく。それを、描く。
 ガイドラインとしては理解できるが、やってみるとなかなか難しい。書くプロセスにおいて「意味」の重たさが付け加えられてしまうことがあるからだ。
 俳句表現を利用して、何らかのメッセージを伝えたいという意図があるならば、そうした「意味」こそが最重要なコンテンツとなるのであろう。ともあれ、「意味」が重たくなればなるほど、俳句作品としての香気が乏しくなる傾向があるのは、厄介なところだ。
 日傘を、畳む。鳩尾(みぞおち)に、傘の柄(え)を突き立てているのは、片手で畳もうとしてるからなのだろう。炎暑の外界から、ひんやりした屋内へ。無意識な身体のふるまいを活写する事で、その折の心の動きまで読者の想像に働きかける。無意識の行為を捉え、表現する。その筆致の確かさが、桃園ユキチの根を支えているようだ。「口笛にならぬ息あり青葡萄」などにも、その資質を見る。
 「宵寒や水平線は下まぶた」「霜焼の手は海羊歯を飼っている」などでの見立ても、面白い。「切っ先にごぶりと海を吐く海鼠」の着眼も興味深い。それらの面白さは、「下まぶた」「海羊歯」「海を吐く」などの知的な認識によってもたらされているわけだが、こうした面白がり方は、俳句としての香気を減退させかねないものだ。非凡なる着想力があるからこその表現だが、桃園ユキチには、俳句作品の香気をより高く表現する才能があるように思われる。注目し続けたい。

 二席
 ふるてい「絵の全容」。
 もう音のせぬほど踏まれきる落葉
 絵を見ている。美術館のような環境にいる。そんな気配の連作。
 連作というと、作者の身体は一定の環境に置かれ、時間もその折に拘束されるのが一般的である。時に、この二十句は、春から夏、秋を経て冬へと季節を移動している。絵画鑑賞をしている身体が一挙に四季を貫くのだとしたら、この四季は身体の置かれた環境ではなく仮構されたものとなる。一般的な句集に見られる四季の移ろい順の句の並びを一つの回廊(ガレリア)と見立て、そこをあえてバーチャルに駆け抜けてみせる試みをこの二十句に見る。いきおい、そこには、季語とは何であるか、また、俳句習慣としての季節の整序とは何か、という問いかけを見届けることもできよう。
 慣習的なふるまいを相対化する試みを背景におけば、「もう音のせぬほどに踏まれきる」ものは、美術館前の落葉であると同時に、無意識な反復によって失われた詩的感動を指すのかもしれない。
 意識的な試みであるからこそ、季語に対する批評性を作品にも期待してしまうが、そうなると添えもの的季語のあしらいがアラとして見えてしまってもったいない。「春愁い三歩ほど退き絵の全容」における「春愁い」や「題を見てまた絵の細部鳥の恋」における「鳥の恋」などが、それだ。「彫像のどれも首なき木の芽時」などのアイロニカルな語の斡旋を見るにつけ、作者の力量と企画力がもたらす次なる挑戦に期待してやまない。

 三席
 紺乃ひつじ「三種類」
 トルソーの担がれてゆく聖夜かな
 ツリーを囲む。十字架の上の人の姿を仰ぎ見る。そして、あらたまったような気分になる。
 物質でありつつ人間の存在を映す存在。トルソーも、また。それが、担がれて聖夜から退場させられるのである。そこには、俳句作品として整えられたおかしみと悲しみが漂う。書いた言葉が、読者にどのように染み込むのかを見届ける眼差しが、この表現の奥にある。
 「すれ違ふくらげが透けてゐる海月」における「くらげ」と「海月」の表記の違いも、自身の作品に対しての他者からの読みを想定しての配慮かと思う。
 こうした配慮は、句を小さくまとめてしまう傾向も含む。小さくならないように、かつ、読みつつ書く行為を重ねる。そこらへんのサジ加減は難しいが、さらなる表現へつながる可能性を作品に見出した次第。

 八十八夜仰向けに臍拭ひをり
           赤木真理

 臍に溜まった液体を、仰向けのままに拭う。そのふるまいは、介護の一所作であるのかエロティックな状況での一場面なのかはわからない。米を作るための多くのプロセスを連想させる「八十八夜」を置くことで、季節感を伝えるだけではなく、多くの事柄の連続としてひとつの行為を理解する視線が読者にもたらされる。見せられている言葉のフレームの外側へと、身体のふるまいや日常の連続を想像させられることで、一句は俳句としての重みを獲得する。それは、意味の世界における情報の重みとは異質のもの。
 季語の作用によって、水分を湛えたうつろとして、水田と仰向けの臍とがイメージの上で重なり合う効果もあるだろう。散文の文脈では拾いきれない香気を書き留める作家の志向に感銘を受けた。 

 ぎよく将のうらはつるんと寒あける
             南方日午

 将棋の駒。それぞれ、裏にはそれなりの文字が刻まれている。王将と玉将とをのぞいては。それで「うらはつるんと」。
 され、この句。「つるんと寒開ける」という文脈でも読むことができる。
 どちらにしようか。そこに、ちょっとしたシコリが生まれる。
 意味の上では、「将棋の駒の裏側に何も書かれていないようにすっきりとあっさりと寒さが移り変わって春へと進みはじめたよ」ということなのだろう。ともあれ、この「つるんと」の行方を思いつつ、このシコリに立ち止まってみるのも俳句としての遊び方のひとつ。
 修飾と被修飾との関係が曖昧になっている作品は、混乱を招くばかりで面白みに欠ける場合が多い。ともあれ、この句の「つるんと」のシコリは、寒があける折のまろやかな不連続ぶりを感じさせてくれるようにも思う。
 「ぎよく将」「うらはつるんと」というひらがなの連なりも、意味の世界だけではなく音声や構造においてメタ的に遊ぶことを誘導しているようでもある。

 うすらひや鳥の記憶の中にパン
         クズウジュンイチ

 テーマは、「うすらひ」。ともあれ、作者がイメージしているのは、薄氷がある環境。おそらくは、ありふれた道。朝の光の中で、ところどころの水たまりなどが凍ってしまっている状況。鳥が降り立つような道。そんなふうに読んだ。
 薄い氷がそのままに残されている状況は、同時に、なんらかの出来事が起きていないということを示してもいる。
 何もないということ、その集合を印象づけるにあたって補集合を示してみせるという技法には、このような例がある。
 見渡せば花も紅葉もなかりけり
 浦の苫屋の秋の夕暮   藤原定家
 「浦の苫屋の秋の夕暮」。その何もなさを際立たせるのは、「花や紅葉」の幻影である。
 その道でついばんだパンくず。その記憶を補集合に置くことで、集合としての何もない道のありようが示されている。
 それが、「うすらひ」の清潔にして貧しい存在として読者の中に立ち現れる仕掛けとして機能している様にも思う。
 切字の「や」はテーマを掲げる修辞。そして、そのテーマにおいて連想させられる事柄を呼び寄せる修辞。連想させられるイメージのうちで、テーマからより遠くまで飛躍できた時に、「や」の詩的パワーは輝きを増すようである。 

 痴話喧嘩南瓜を煮たる火を弱め
            山本たくみ

 ちょっと厄介な展開になるかもしれない。だから、焦げ付かないように南瓜を煮る鍋への火を抑えたのである。そうは言っても日常生活を止めることはしない。火を消したりはしない。その程度の「痴話喧嘩」なのである。
 無意識のふるまいを切り出すことで、複雑な状況を鮮明に描き出す手腕。最後を動詞連用形で言い納め、冒頭に読みが循環させる配慮も、俳句作品としての安定につながっている。

 ナゲットのソース余りて帰り花
             木村陽翔

 ナゲットが主であるならば、ソースは従。主従において、従が余る。本来の季節ではなく、つまり、植物の本能から逸脱しているような「帰り花」と、その余剰への感覚とを結びつけるセンスの妙。
 「帰り花」を老いの中での心のちょっとした華やぎに結びつける境涯的な作品は世に散見されるところであるが、掲句には、俳句的なイメージの飛躍へのコンタクトが健やかに示されている。その新鮮さにも惹かれた。

桃園ユキチ「発熱」

白桃賞(山田耕司推薦 第9回円錐新鋭作品賞)

獣医師が赤ちゃん言葉しずり雪
縄跳びの少女身体を持て余す
手のひらに馬の脈拍花薺
蝶々や立てばまどかに視野の欠け
口内にミルクの粘り春の庭
苗床やくすぐるように水をまく
病院を包囲している夜の躑躅
人の手に小さき水掻き草いきれ
河童忌の胃の腑が肉を押し返す
日傘畳む鳩尾へ柄を突き立てて
口笛にならぬ息あり青葡萄
昼に寝て六畳広し棗の実
小鳥来る波の欠片を鳴らしつつ
たくあんの匂いの電車秋日照
今年米炉端に貝の騒がしき
宵寒や水平線は下まぶた
切っ先にごぶりと海を吐く海鼠
空風や裂け目のごとく口があり
耳奥に熱のさざめき冬落暉
霜焼の手は海羊歯を飼っている

105号 出版が遅れています

第9回円錐新鋭作品賞の結果を掲載した105号の出来上がりが遅れております。印刷所での作業が続いている状況です。

発行所に本誌が届き次第、速やかに発送作業に移ります。新鋭作品賞に応募してくださった方には、もれなく郵送しますので、しばしお待ちください。

発送に際しては、このサイトにてお知らせします。また、Xなどでも告知します。発送作業に合わせて、このホームページにおいても賞の結果がお読みいただけるようにします。ひきつづきどうぞよろしくお願いします。

円錐発行人 山田耕司

円錐104号 

2025年1月30日刊

展展望望

安里琉太 (特別寄稿)
佐藤りえ (特別寄稿)
和久井幹雄
大川原弘樹

特別作品

味元昭次
横山康夫
原田もと子
山本雅子
摂氏華氏

評論

七月七日の詩学 天の川の巻
今泉康弘

新連載 ひっちはいく
摂氏華氏

バックミラー

矢上新八
後藤秀治
立木司
神山刻

第九回円錐新鋭作品賞募集のお知らせ

●未発表の俳句作品20句をお送りください(多行作品は10句)。 作品にはタイトルをつけてください。

●受付開始 2025年1月15日

●応募締切 2025年2月15日

●年齢・俳句歴の制限はありません。

●応募料・審査料などの経費は一切必要ありません。ご応募くださった作品の著作権は作者に帰属します。

●ご応募の際には、お名前(筆名・本名)、ご住所、メールアドレスなどの連絡先をお書き添えください。折り返し、編集部より連絡申し上げます。

●受賞作品は「円錐」105号(2025年4月末日刊行予定)に掲載。

●選者
伊丹啓子(特別選者)
山田耕司
今泉康弘

宛先 円錐編集部 ensuihaiku@gmail.com

ホームページ http://ooburoshiki.com/haikuensui/
※上記HPにて、今までの受賞作品・審査コメントなどをご覧いただけます。

第8回 円錐新鋭作品賞

荒野賞 (小林恭二推薦)

佐々木歩 「たましひの器」    読む

白桃賞(山田耕司推薦)

青木ともじ 「篝」        読む

白泉賞(今泉康弘推薦)

織田亮太朗  「■■者」     読む

推薦作品(一句推薦)          読む

小林恭二推薦 第二席  涼野海音「雪女」     読む
小林恭二推薦 第三席  内野義悠「薬効」     読む

山田耕司推薦 第二席  本多遊子「永遠の三」   読む
山田耕司推薦 第三席  山本たくみ「着席せよ」  読む

今泉康弘推薦 第二席  加藤閑「無垢と爛熟」   読む
今泉康弘推薦 第三席  ミテイナリコ「Like 唖 排句 Gocco(ご挨拶ver1.0)」 読む

小林恭二 選評 「荒野に咲く花々」            読む
山田耕司 選評 「俳句として書き上げること」       読む
今泉康弘 選評 「我らにとって型とは何か」        読む

第8回円錐新鋭作品賞  編集部より           読む

第8回円錐新鋭作品賞 編集部より

第8回です。

今回は72編のご応募をいただきました(第1回47編、第2回40編、第3回58編、第4回46編、第5回67編、第6回63編、第7回79編)。

2023年7月に、澤好摩が急逝。新鋭作品賞の開催のみならず、弊誌「円錐」の継続についても見直さなければならないような大事件でした。
同人たちは、集い、話をしました。そして、円錐を発行し続けることに決めました。
新鋭作品賞も、続けます。
俳句を書く人の発表の場、その多様性に寄与するために。そして、まだ見ぬ優れた一句に出会うために。「新鋭作品賞、もうちょっと続けてみよう」。澤さんは、亡くなる前の年に山田にそのように告げていました。

特別審査員として、小林恭二さんをお迎えすることができました。
合計1,420句(20句70編、多行10句2編)を読み評価するというお引き受けくださいましたことに、心から感謝申し上げます。

募集条件は、未発表の20句(多行作品は10句)。作者の俳句歴や年齢などの条件、一切不問。審査の上、20句を対象に、第一席から第三席までを選出。句単位での顕彰は、5句。
ご応募くださいました皆様、そして、募集情報の拡散などにご尽力くださいました皆様に、あらためて感謝と敬意を捧げたく存じます。                      (円錐編集部・山田)

今泉康弘 我らにとって型とは何か

選評 第8回円錐新鋭作品賞

 何一つ明かりの無い暗黒の中で生きていくことができないように、人間として生き、生活するにあたっては、生き方の型が必要である。その型を文化とか文明とか常識と呼ぶ。そうした型のうち最大のものは言葉である。生活の中で他人と意思疎通をする上で言葉は無くてはならない。しかし、それが型であるということは、既成の形に当て嵌めるということだから、各自の内面の微妙さをうまく表せないことも多い。俳句も一つの型である。時代によって型としてのあり方を変えつつ、その型を使うことによって、人は形にならないモヤモヤ混沌としたものに形を与え、そこに喜びを感じてきた。その型の最たるものが五七五の定型であり、季語を使うという約束である(と思われている)。しかし、それが型である限り、そこから生まれるものは既成の表現のくり返しとなり、新鮮さを失う。型のあり方に挑み、真に生き生きした美しさを掴もうとする作品を高く評価した。

 第一位は織田亮太郎「■■者」。

 ■■派反■■派皆裸
 痩身の■■省を出て四日
 脳髄を■■色に滴りぬ

  「■■」は、検閲されたあとの伏せ字のようであり、また、活字印刷における「げた記号(〓)」のようでもある。先年の本賞投稿作品にも、こうした試みはあったので、初めて行われたものではない。だが、一般的に、やはりこれは斬新な試みであることは間違いない。かつ、単に斬新であるだけではなくて、伏せ字の如き記号を導入することにより、作品に戦時下や占領下のような時代感、即ち不穏にして危険な印象を生んでいる。一般に俳句に対して抱かれるところの穏やかな趣味性だとか、安らげる文芸だとかいった印象に対して真っ向から異を唱えている。この挑戦の姿勢が良い。とはいえ、全く読者を突き放しているかというと、そうではない。「■■」の部分、音読できないように見えるが、よく見ると、「■」の一つが二音分であるとわかる。「■■」は例えば「バツバツ」と読める。するといわゆる五七五の型に収まるのだ。かつ、この二十句は全て季語をもつ。「四日」を一月四日、「滴り」を夏山の岩壁からの水滴、と捉えた場合に季語となる。かつ、全体が春夏秋冬の順に並ぶ。ただし、本作での季語の使われようを見ると、いわゆる歳時記的な用法ではない。こうしたことはどういうことなのか? ■■を使うという前衛性を空回りさせずに作品として成立させるために、そうしたいわゆる俳句らしさによって支えとしたのであろうか。あるいは、季語や四季順列という既成の観念への批評と見ることもできる。題名は「■■祭」とすれば、それも季語への批評となる。

 第二位は加藤閑「無垢と爛熟」。

 夏至の日の雪法王は口で受ける
 少年に舌を吸はせる獏老いて
 叫喚止まず教室の天上にイコン

 全体に夏石番矢風の味わいがあり、斬新さと不穏さの魅力がある。夏の空から雪が舞い落ち、それを法王が聖餐のように口で受け止める。その光景はまさに番矢風の見事な絵である。老いた獏が少年の舌を吸う図はあたかも山本タカトか丸尾末広を思わせる。「叫喚」は教室の子供たちと結び付くことで存在感を生んでいる。その天上(天井ではない)に、ロシア正教風のイコンが幻視される。 

 第三位はミテイナリコ「Like 唖 排句 Gocco(ご挨拶ver1.0)」

 詩に焚くない殻遺棄て煎る生盆
 その話一反木綿豆腐濾す
 深夜二時見えない虹の先の些事

 一句目は「しにたくないからいきているいきぼん」と読む。漢字変換のミスのようだが一種の語呂合わせでもある。二句目は「一旦」という副詞と「一反木綿」との掛詞。三句目は「ニジ」「ニジ」「サジ」という音の遊び。つまり、俳諧本来の滑稽味がここにある。特に一句目は「生盆」という、内容も語の響きも奇妙な季語と巧みに響き合っている。

 以下、審査用の資料に掲載された順に全ての応募作に触れていこう。

1 岡田美幸〈お雑煮の中の鳴門が微笑せり〉鳴門巻の渦巻模様が新春を寿ぐ。

2 小里今日子〈ひとつぶの葡萄のなかの海鳴りや〉深い海の色をした葡萄。

3 大野美波〈あの子さえいなかったなら木下闇〉小学生が同級生を妬む…。恋人を奪われた若い女の思い…。重荷となる子どもを持った親の心境…。誰しも抱いたことがある、心の中の闇を形象化。

4 赤木真理〈鞠かがる臍の緒二つ芯として〉出産時に亡くなった赤子の臍の緒。それを鞠とすることで、その子にも遊んで欲しい、という思い、なのか。

5 尾内甲太郎
 〈錆びついた
       ロケット
 枯野は
 剛毛
不要のロケットが枯野に廃棄されたか。

6 垣内孝雄〈鳰の湖なまづたくさんをりますよ〉琵琶湖に永田耕衣がいる趣。

8 坂西涼太〈十二月八日コップに水ふるへ〉戦闘機通過の振動か。繊細な感性。

9 山田すずめ〈町にまた増える戒名冬の虫〉個々の霊は時を経て先祖の霊と一体化するが、文字としての戒名は残り、増え続ける。その存在を冬の虫と重ねるのは辛辣な批評性がある。

10 播磨陽子〈うかうかと狐火の尾か腹か踏む〉百鬼夜行図の中、狐火の後ろにいるうっかり者の物の怪か。落語の趣も。

11 紅紫あやめ〈祝日も忌日も蜜柑揉んでいる〉なすことの無き人の単調な毎日を具象化。ある種の永遠性がある。

13 植田井草〈さよならは渋民駅の次の駅〉渋民は石川啄木の故郷。石川啄木の人生の場面か。静かなロマン。

14 五月ふみ〈外套に臓器と臓器隔てられ〉人間とは即ち臓器であり、その囲いとして外套がある、という鋭い幻視。

15 正山オグサ〈ミサイルに小さき羽や雪催ひ〉恐ろしい兵器が小鳥の様に見える。暴力と可憐さとの一体化。

16 村瀬ふみや〈鶏頭花無声映画に火の匂ひ〉鶏頭の映像に炎を感じる鋭い目と鼻。鶏頭は無言のまま燃えている。

17 千住祈理〈生きたさの自自自自荷重冬の海〉生の衝動が重荷となる詩人の体感。「自我」の重さは近代人の宿命。

18 菅井香永〈初旅やあんパンの餡まで遠し〉食べることも旅だという洞察。

19 涼野海音〈次の世も次の世もまた雪女〉一つの魂が生まれ変わりつつ雪女であり続ける。雪女への優しさとロマン。

20 三島ちとせ〈墓参りスプーン曲げられる叔父と〉素敵な叔父さん。羨ましい。

21 あおい月影〈小春日や監視カメラのない戸棚〉題は「コンビニの日常」。監視カメラだらけの店内に一箇所だけ、カメラに映らない所がある。それは冬の暖かな日のようだ。共感します。

22 相田えぬ〈頭痛吐き気眩暈のち冴える〉季語「冴える」が気語となる面白さ。

23 高橋花紋〈これは純文学あれは寒鴉〉「これ」が何か気になる。作品自体か。

24 藤雪陽〈天心に集へる送り火の煙〉天の中心に天国への入口を見る深い視線。帰る霊のターミナル。

25 青木ともじ〈初夢に君はゐなかつたと思ふ〉「と思ふ」の曖昧さに現代人のあり方が投影されており、現代的である。

26 佐藤研哉〈極月の上映中の小さき地震〉非現実から現実へ戻る感覚を形象化。

27 楠本奇蹄〈冥婚の喉に白魚わだかまる〉冥婚は死者との婚礼。その参列者が白魚を食べると喉に引っ掛かる。不気味だ。そこに詩的実感がある。

28 有瀬こうこ〈寒鯉の口がUFO呼んでゐる〉鯉の口という凡庸な素材を、誰も詠んだことのない非凡な観点で描く。

29 貴田雄介〈平和とは空しき言葉冬荒野〉平和は人類にとって最重要概念だが、現実にかくも裏切られている言葉は無い。その歎きを「冬荒野」が象徴。

30 山本たくみ〈ばいきんをなすりつけあふさくらかな〉小学校での日常を教員の視点からシニカルに描いた連作。面白い句が沢山あり、特に掲句は学校を越えた社会批評として普遍性がある。

31 佐々木歩〈腫瘍から焚火の音がしてをりぬ〉ザ・バンドの『南十字星』の如く焚火にはロマンティックな趣きがあるが、掲句はそれを踏まえつつ巧みに異化している。三鬼の「水枕」に迫る。

32 平良嘉列乙〈領土・領海・領空、炬燵に伸ばす足〉炬燵での陣地争いという卑近なことと国際政治との落差が俳諧。

33 平野光音座〈熱に倦みアセチルサリチル酸残響〉アスピリンが響く感覚を活写。

34 本多遊子〈春宵一刻キープのボトル拭くをとこ〉滑稽な様子を切り取る観察眼。拭く姿の可笑しさを巧みに書く。

35 かくた〈北窓の網戸が破けていた〉自由律のような味わい。破けていたってええじゃないか、という気持ちになれます。俳諧性があります。

36 古田秀〈地下鉄は都市の腸クリスマス〉人間は都市に吸収される食物に過ぎない。都市こそが主人だと明察している。

37 髙田祥聖〈報はれぬ案山子ばかりやおなか空く〉風雨に晒されて働いても感謝されない案山子達への切ない共感。

39 杢いう子〈膵臓脾臓とささやき交わす菊花展〉内臓同士が身体の主の事を相談。菊の香りに誘われて。

40 ばんかおり〈喉奥の目薬あまき銀河かな〉目薬が溢れて口に入る。飛躍が絶妙。

41 川田果樹〈凍る水面にいまかいまかと触れてゐた〉今凍りつつある水面の感触。風狂の精神。

42 七瀬ゆきこ〈バーバーのーのひとつが暖かし〉「ー」は「アー」と読むのか。小沢昭一の俳句のような飄逸な味わい。

43 藤白真語〈とりあえずパンツを履いてからビール〉一人暮しでも、履いてから。秀逸な現代川柳の趣。

44 立木司〈風船が押すな押すなと死出の山〉冥府を描く。独特の感性が秀逸。

45 花島照子〈早起きの九月の真水飲み干して〉「真水」がおいしそうで印象深い。

46 クズウジュンイチ〈うつぶせのうしろあたまのほととぎす〉呪文のような不思議な味わい。平仮名表記も成功。

47 木佐優士〈秋日傘母が仏花をぶつた切る〉仏花は供花か。それを傘で切る凄さ!

48 とみた環〈寒烏・折り重なりて祈りけり〉中黒の生むリズム感が快い。

49 横田縞〈耳の奥に戦ぐ花野はいつも雨〉目や胸の奥ではなく、耳の奥。簫簫たる雨の音の花野という美しい内面世界。「戦ぐ」の効果で古戦場を想起。

50 海音寺ジョー〈端材で作れとの下知オリオン座〉工場の景だが、神話のようだ。ギリシャ神話の裏話?

51 里山子〈祈りいま枯野があくびしたような〉真面目に祈っている時に情況に茶化される。かえって祈りの真摯さが滲む。宮澤賢治の童話のようだ。

52 沼野大統領〈草相撲敗けて螢のにほひかな〉土俵も無い文字通りの草相撲。地面に転がされると、そこに螢が舞った。

53 白夜マリ〈春暁の喉の奥から群青犬〉ダリの絵のようなシュルレアリスム。

54 奈良香里〈途中まで折り鶴だつた夏の雲〉鶴を折っていたら、真夏の大きな雲になってしまった。キノコ雲を思わせる。口語「だった」が効果的だ。

55 三浦にゃじろう〈どんぐりを拾って変わる未来かな〉個人の人生にもバタフライエフェクトがある。希望を示している。わらしべ長者の現代版?

56 菊池洋勝〈せめて足だけでもお湯に浸けますか〉少しでもリラックス。少しでもゆとりを。俳句の存在理由を示す句。

57 小夏すず子〈苺ジャム昨夜の傷と同じ色〉苺ジャムと傷口とを重ねる鋭敏さ。

58  三枝ぐ
 〈肉の虚          

 アンモナイトか
 泡雪か
 掲句以外にも印象的な多行句あり。

59 駒野繭〈春休みポストに挨拶してまわる〉郵便箱のことだろう。チャップリン演じる放浪紳士の如き、世界への接し方。作者の心優しさが滲む。

60 日月連〈花園に分け入つてあるタイヤ痕〉可憐な秋の草花を自動車が蹂躙!世界を脅かすものへの作者の悲しみ。

61 加藤幸龍〈春の夜の人魚きゆうきゆう産卵す〉擬態語が面白い。見たことのないものを見せてくれる面白さである。

62 石川聡〈名画座に来しが廃業春北斗〉寂しい気持がよく出ている。

63 石川順一〈十二月二掛ける二掛ける三掛ける〉語呂がよいので覚えやすい。

64 内野義悠〈起き抜けの水ふくろふと分け合はむ〉フクロウとの交歓に好感。

65 詠頃〈小鳥来るベッドを這っている手首〉気色悪さが気持ちいい!

66 田中目八〈おおかみの中でねずっと恋しよう〉狼の胃の中か? 斬新だ。 

67 あさふろ〈蘖ゆるクローゼットのラヂオかな〉ラジオから芽が出る。凄い。

68 郡司和斗〈獅子舞の中の父より鍵もらふ〉獅子舞と鍵との組み合わせが秀逸。中本昌人の〈なまはげの指の結婚指輪かな〉と並べたくなる秀作。

69 紺之ひつじ〈己が雪にまへがみ濡るる雪をんな〉前髪の具体性が上手い。

70 細村星一郎〈マグマただ滾る 扇を落としても〉扇は和歌以来、無数に詠まれるが、マグマに落とすのは空前の壮挙。

71 岡一夏〈便器みな正しき水位花八手〉映画『パーフェクトデイズ』の主人公が俳句を作ったらこうなるだろうか。

72 兎森へる〈虎落笛ネリエニヌルル家兎ノクチ〉兎用の練り餌があるとは知らないが、不気味な感じが凄い。

 お疲れ様でした。珈琲でも飲みましょうか。なに? 酒のほうが良いって? あっ、澤さんでしたか!

山田耕司 俳句として書き上げること

選評 第8回円錐新鋭作品賞

 まずは、感謝のメッセージを。

 応募してくださった方々に。募集情報を拡散して、円錐新鋭作品賞の運営を支援してくださった方々に。
 そして、特別審査員をおひきうけくださった小林恭二さんに。
 みなさん、ありがとう。
 小林恭二さん、ありがとう。 

 白桃賞
 青木ともじ「篝」。 

 目で追うて木目短き暮春かな

ことがらとすれば、命の痕跡でもある「木目」のあっけなさと「暮春」との共鳴。およそ、そこに詩情が託されていると読むところ。
 それは、そうと。
 作者は、着眼したことがらを着眼のままに書く行為への警戒心を持っているようだ。その姿勢にこそ、惹かれるところがあった。
 「目で追うて」。これは、書かなくても良いこととされそうな措辞だ。「木目短き暮春」で、十分に意味は伝わっている。しかし、意味を意味のままにしておくのではなく、読者が身体を通じて体験できるような筋道をつけるという点においては、「目で追うて」は有効技。「見てみれば」などではなく「目で追うて」という語を選んだことで、視覚と触覚との交感も余韻として漂うこととなる。

 湯の柚子を遊ぶほかにも用ゐる手 

 「ほかにも用ゐる」というやんわりとした俗事を連ねることによって、「柚子を遊ぶ」営みの聖性を浮かび上がらせる。あえて具体的な書き込みを控えることで、一点へと読者を向かわせるところに俳句的技巧がある。 

 二人して人参買うて来てしまふ

 「買うて来てしまふ」の、ほどよさ。「買うて来たりけり」と見栄を切ったら、「二人」の関係の日常性が吹き飛ばされてしまっていたかもしれない。「人参」のほどよさ。 

 ラジオから鯨を追へる人のこと

 鯨を追う人と自分との距離。それは、非日常と日常の距離。遥かなる非日常が生活空間の小さな道具からこぼれてくる。あえて「ラジオから流れる」などという状況説明を省く手さばき。これも、ほどよい。
 俳句としての「ほどよさ」は、作者であると同時に、読者としての視点を鍛えている作家であることが想起された。
 読み終えて感銘を受けてから、作家名を確認。青木ともじ、とある。第七回円錐新鋭作品賞において、澤好摩が二席として評価していた作家なのであった。
 今回の作品を、澤さんに読ませたかった。澤さんと山田は選出する作家が重ならないことばかりだったけれど、今回は例外になっていたかもしれない。

 二席
 本多遊子「永遠の三」。 

 鉄板のげそ立ち上がる義士祭 

「立ち上がる」を介して不思議な回路が生まれてしまっている「げそ」と「義士」。「祭」と「鉄板」の相性の良さがしたたかに句を支えている。モノやコトの日常的な顔つきの奥に、名付けられないような感情の回路を配線するのが、俳句ならではの面白み。そんな面白みに富む作品が並ぶ。

 春深し骨凭れ合ふラムチョップ
 街溽暑あんこ禿げたる串団子

 食べ物の句が、いい。(季語+状況+食品)という同じ構造なのだけれど、それぞれに、それぞれの味わい。
 「大柄なをとこと暮らし独活捌く」(ウドの大木)「斑猫や口で説明できぬ道」(斑猫には「道教え」の異名あり)、この辺り、意味の焦点が一点に注がれてしまって、俳句作品としての香気が後退してしまっているようで惜しまれた。 

 収縮をしさうな枇杷の黒き尻 

 およそ一般的には許容され難いような発見。それでも、見えてしまっているものを書く。輪郭を持つことなきままの発見を書きつける形式としても、俳句は機能し続けるであろう。作者の独自な突っ走りぶりをもっと見たい気持ちになる。

 三席
 山本たくみ「着席せよ」。 

 ストーブに飽きし者より着席せよ 

 一読、渡邊白泉の「玉音を理解せし者前に出よ」を思い出した。いうまでもなく、白泉の作品における「玉音を理解せし者」という内容の重みは、「ストーブに飽きし者」と比べるところではない。ともあれ、であるからこそ、「支那事変群作」あたりを想起しながら読み、〈俳句が現実世界に接する際の手さばき〉について今更ながら考え直す契機となった。

 給食のこれを松茸飯と言ひ
 フラスコの微かに揺るる運動会

 主観を抑制しながらも、それとなくユーモアをしのばせること。世界の大きさを部分のありようで汲み取ること。こうした手さばきは、俳句や川柳ならではのものと言えるかもしれない(現代の川柳が遠ざかろうとしているものかもしれないけれど)。戦争であれ教育現場であれ、その手さばきは、一定の機能を果たす。変化し続ける社会において、こうした作品を書き上げる作者の行方に心惹かれる。

 聖歌たからか自販機に白湯がない     山田すずめ

 自販機のディスプレイにに、ドリンクたちがずらり。背景から光を受けて輝いている。その姿と聖歌隊の姿とが重なる視点は、俳句ならでは。「白湯」の不在は、たからかに歌われる聖歌に対する〈俗〉の位置を示しているようだ。これは、そのまま俳句に対する作者の鋭い感覚を表現している。

 凍鶴はねぢれ知恵の輪はじけ飛ぶ     佐藤研哉

〈厳寒の中の鶴の印象をいう。風雪に耐えながら自らの翼に首をうずめて片脚で立っている鶴は、まさに凍てついてしまったかのようである〉。これは、季語「凍鶴」の説明。凍えているという点に心寄せをすれば、人間の心情を重ね合わせるような書きぶりになるところであろう。しかし、その形状にのみ即物的に注目していて「ねぢれ」。人事としての意味から解放された圧力めいて、同じようにねじれからまっている形状の「知恵の輪」が弾け飛んでいる。日常的な論理では発生しないような回路が生まれている。意味の世界の召喚に応じもせずに、その回路を句として書き留めた行為に強い共感を覚える。

 頬杖の杖を剥がして割る焼酎      かくた

 頬杖をついている。そのままでは、次の一杯をこしらえることができない。
 仕方がないなぁ。
 こんなドヨンとした気分を、「頬杖の杖を剥がして」と表現したことに驚いた。「剥がして」という言い回しに、〈仕方がないなぁ〉感が滲み出ている。
 こんな気分を書き留めることに何の意味があるのかという考え方もあるだろうが、言葉としての骨組みが与えられることで、意味を超えた価値が漂いはじめる。そして、こうやって価値を発生させる言葉を重ねていくことで、俳句という文芸の奥行きが、また、少しふくらむことになるのだろう。

 生牡蠣や住所氏名の字をくづす   クズウジュンイチ

 住所氏名を書く機会がある。それは、おおむね、他者に読み取られることを前提にしている。手元のメモ書きとは、趣を異にするのだ。
 他者の目に触れる「住所氏名の字」を崩す。それは、他者への配慮をやめてしまったわけではないけれど、と同時に、自分の美意識やら生理的な癖やらにくつろぎを与えるような行為である。
 自分を、許す。世界とは、やんわりと繋がりながら。生牡蠣を食べることにも、また、そのような趣がある。
 切字の「や」に対応するべく、下五の「字をくづし」と連用形にしてしまいそうなところだが、それでは、字を崩したのちに生牡蠣を食す、というような時系列が発生してしまいかねない。それでは、あまり面白くない。掲句の表現にさりげなくとどめたところに共感したことも申し添えておく。

 磔の女滝受肉未遂の咎      日月連

 作家名は「たちもり・れん」と読む。
 実のところ、「受肉未遂の咎」という表現は、俳句的には何も伝えてこない。確かに読めば意味はわかる。意味がわかるということと、俳句ならではの価値を形成することとは、質が異なる。
 ともあれ。
 これは、凍った滝のことを描いているのかもしれない。完全に凍結していれば滝は「受肉」して屹立していたであろうに、凍っているところに水が流れて、どうにもおどろおどろしい様子になっている。生と死、命と物体の境界面にあるような様子を、「磔」としたのだとも読める。「女」という言葉も、滝のサイズや佇まいを暗示させるだけでなく、江戸期の責絵めく猟奇的な気配を煽るのに役立っているのであろう。
 それにしても。
 「咎」は、饒舌。これは作者が押し付けた意味であって、俳句としての面白みを削ぐ言葉となっている。
 そもそも、「磔」そのものは、滝の様子の〈見立て〉。その〈見立て〉、つまり作者の中に発生した連想は、「うむ、なるほど」と読者が受信してこそ表現として成立する。本来は主従の従である〈見立て〉が、主たる実景を押しのけて意味を強めると、俳句表現は失速する。
 では、あるが。
 ここは、新鋭作品が集うところ。
 作者が自らの表現に革新を求め、多くの方法を試みることに、日月氏の作品を掲げつつ、あらためて敬意を捧げたい。

 澤好摩は「新鋭、三日見ざれば刮目して待て」と口にしていた。チャレンジの向こうにある新しい表現は、まだ、書かれていない。その未だ書かれざる作品のためにこの賞が寄与できれば幸甚の極みである。