『澤好摩俳句集成』を手に 横山康夫

 澤好摩の三周忌を迎へたこの夏、『澤好摩俳句集成』が成つた。刊行に尽力した山田耕司同人に心から感謝の意を表する。また多くの方々のご協力にもお礼を申し上げたい。


 『集成』の装幀は瀟洒でその飾り気のなさが好ましい。澤好摩は兔が好きで自分でも飼つて可愛がつてゐたが、その兔が装画として配されてゐるのも納得である。卷末に初句索引や季語索引を載せてくれてゐるのも有難い。作品の全てを覚えてゐるわけではないし、作品を覚えてゐてもどの句集だつたかといふのを思ひ出せず迷ふといふやうなこともあるからである。一つひとつの句集にあたらずともこの『集成』一冊ですぐに確認できるのは助かる。


 わたしは遠く離れた地にゐて小さな句会の仲間とともに俳句を書いてゐる。だから現在の俳句界がどのやうな状況にあるかといふことには疎い。〈展展望望〉の編集趣意に相応しい内容には到底ならぬだらうが、『澤好摩俳句集成』を手にとつてそこから喚起される思ひを述べることで責めを果たしたい。


 澤好摩の最初の句集『最後の走者』は初期の作品から「青玄」に所属しその影響を受けた頃までの作品で構成されてゐる。ごく初期の作品の中には、


  天に雨の降り残しなし鬼あざみ


といふやうな抜群の安定感を示す作品やその抒情の原点を示す作品もあるが、多くは習作といつてもよいものであらう。手探りで書いてゐるといふ感じを受ける。それは澤好摩自身がその「あとがき」に「何をどのように書くのかということは疑問に包まれたまま」とか「一体ぼくは何を書こうとしているのか」と書いてゐることからも分かる。「青玄」に参加したのも「何をどう書くか」といふ答へを求めてのことであつたらう。


 一九七〇年に一年半程の関西での生活を終へて東京にもどつた澤好摩はすでに「青玄」の影響から脱してゐた。わたしはその辺りからの澤好摩の俳句に大きな変化を感じ目を奪はれる思ひだつた。「青玄」の影響下の句は書き方が変はつたといふ感じが強かつたが、もどつてからの作品は根底から変はつたといふ感じを受けた。その作品は多く『印象」に収録された。なかでも次のやうな作品は今でも深く心に残る。


  ものかげの永き授乳や日本海
  百日紅ひとりでをるは深傷負ふ (深傷にルビ「ふかで」)
  空高く殺し忘れし春の鳥


私はこれら『印象』に収録された作品を書いてゐた頃の澤好摩が最も輝いてゐたやうに思ふ。それは「何をどう書くか」といふことに一定の答へを見出してゐたからではなからうか。これらの作品が書かれたのは「俳句評論」に所属してゐた頃である。


 「俳句評論」に所属する契機になつたのは折笠美秋の知遇を得たことによる。当時、同人誌「辛夷」二号(一九七一年)の〈編集手帖〉に、富澤赤黄男の箴言「蝶はまさに〈蝶〉であるが〈その蝶〉ではない」(クロノスの舌抄)を採り上げて、「言語の仮構性という面から改めて俳句の構造を捉えなおす」との傾向に賛意を示しつつ、「言語の問題を軸にして、未来の俳句への模索を持続」すると澤好摩が書いたのを読んだ折笠美秋が声をかけてきたのである。「これは〈俳句評論〉へのシグナルだと受けとめました」と言つた折笠美秋の言葉が今も私の耳に残る。


  木の箱に納まるわれももみぢせり  『印象』


 折笠美秋に、
  桐箱でおさまるいのちではないか  『虎嘯記』


といふ句があつて、「木の箱」の句は明らかにこれに影響されて書かれた作品と思はれる。澤好摩は折笠美秋の知遇を得てから、「俳句評論」や俳句総合誌などに発表された折笠美秋の作品を独自に渉猟し、折笠美秋の句集が刊行されるより遙か以前に、「折笠美秋作品抄」を作つた。謂はばそれほど私淑したといふことであらう。「影響されて書かれた」と言つたが、より正確には呼応して書かれたといふべきだらう。「おさまるいのちではないか」との確信的呼びかけに、「納まるわれももみぢせり」と応へてゐるのである。少人数で同人誌を出したばかりの若者に声をかけてくれた先達への敬意の気持ちもあつたかと思はれる。両者ともに鬼籍の人となつた今、この二つの作品から二人の関係、殊に折笠美秋が与へた澤好摩への影響に改めて思ひを巡らす。


 紙幅が無くなつてきたので少し急ぐが、晩年の澤好摩に対して保守化してゐるのではないかといふ危惧があつた。私はそのことを直言して長文の反論を貰つてしまつたが、かうして全体を見通せる『集成』を読み、やはり最も鋭い輝きを示してゐるのは『印象』『風影』だといふ印象は拭ひ難い。『光源』『返照』を否定する気は無論ないが、如何に優れた作家といへど、齢をとれば挑むよりもそれなりに落ち着きを示すやうになるのは当然であらう。仮にそれを保守化と見られたとしても、澤好摩は言葉と真剣に向き合ひ、自らの作品の一層の深化に専心し続けたのだと思ふ。 

『澤好摩俳句集成』を読む  加藤治郎

桜貝きらめく波に見失なう  『最後の走者』

 桜貝がきらめく、そしてきらめく波がある。桜貝と波が渾然となったとき、見失なう。なんと美しい句だろう。見失なったのは想い人かもしれない。桜貝の可憐さと重なる。

男の昏睡続く 海底を蟹流れ  『最後の走者』

 昏睡のとき意識があるとすれば、暗い海底を蟹が流れている様子だろう。蟹は無力でただ流れている。

木の箱に納まるわれももみぢせり  『印象』

 この木の箱は棺だろう。納まるという窮屈な感じがそう思わせた。死後の自分も紅葉して華やぐのだ。

打楽器の一音ごとにはじまる圧死  『印象』

 どっどっどっと打楽器が鳴る。不穏な空気を直感し圧死に至った。これから圧死が始まるのだ。怖ろしい。大量殺戮を感じる。577の形式もふさわしい。

寒雲に片腕上げて服を着る  『風影』

 スケッチが絶妙である。寒雲に突き刺さるような腕だ。屋外の男である。たぶん野原だ。服は髙山れおな氏によればコートである。セーターかと想像した。セーターというのも不毛な話で、服は服なのだ。

杉林雲に晩年あるごとし  『光源』

杉林を見て、雲を見る。視線は高い。雲に晩年を見た。静かな境涯の句である。

的の矢を引き抜き年を惜しみけり  『返照』

身体感覚が冴えている。矢を引き抜く手応えと一年への深い思いが照応している。