「俳句でなければ辿り着けないところ」 山田耕司

選評 第10回 円錐新鋭作品賞

 白桃賞
 田村転々「鮫や缶」。
 寝冷えした焼きそばの湯の流れてゆく
 描き出そうとしていない。むしろ、意味として結ばれてしまうゴールを回避している。そうした拒絶感をガイドラインにしているような作品。寝冷えによって失われた体温とカップ焼きそばの捨て湯のありようとを〈喩〉として関与させているという読みも成立するものの、〈喩〉としての出来栄えを巧みに見せることよりも、あえて韻文的な修辞を回避しているような佇まいこそが面白く思えた。
 俳句を書く。それは、典型として評価されるような作品を目指すことであるという考え方がある。歳時記に採られるような作品を目指すという行為だ。一方で、そのような立つ個性的な振る舞いを嫌って、個人の感覚を根拠とする作品を目指す志向も発生することがあるだろう。
 ともあれ、それらは俳句とはなんらかを描き出すことができる文芸だという認識に立つのだろうけれど、同時に、俳句とは〈何も描きださないままに言葉を印象的に行使する〉行為として認識し、実践する作者もいるだろう。そのような意味からの解放という側面は、俳句形式が深く内在しているものである。ともあれ、こうしたセンスは学び難く表現し難い。田村転々には、そうした得難いセンスを駆使しようとする傾向があるように思える。
 水槽のさはれる鮫や缶コーラ
 水族館のタッチプールで、サメに出会う。その時の鮫の温度、質感などが、「缶コーラ」に託されている。その回路で言えば、〈喩〉の句である。ときにこの「缶コーラ」のポジションだが、一般的にはここに季語が配置してしまうだろう。季語とは一般に共有されていると信じられている事象だとして、それならば「缶コーラ」だって、そうした資格を有していると示している句であるとも読める。ベタな〈喩〉として読むのか、俳句の詩的な潜在力を利用しつつも俳句らしさを壊して見せようとする行為として読むか、それは読み方次第というところか。
 〈ものの芽の遠くから来て煙草踏む〉「ものの芽の」の「の」は、俳句では「や」と同じような働きとして飲み込むことができるが、一般的には「遠くから来」た主体として受け取られかねない。その混乱をあえて発生させている。俳句を知り、であるからこそ、絵にならないように工夫している。〈時雨中ポストに手ごと手紙入れて〉〈蜜豆の蓋のたうめい樹下へゆく〉 これらの句における空間意識も、明確な描写でありつつも意味としての重たさを回避しつつ、かつ、深い印象をもたらしている。
 〈薬局にお菓子が並ぶおほいぬ座〉における読者が過剰に意味を詮索してしまう可能性がある「おほいぬ座」の示し方や、〈つむれる目消しても暖房がにほふ〉における平凡さなどが、二〇句の質を後退させてしまってるようにも思うが、俳句ならではの得難い感覚を捉え表現しようとする姿勢を高く評価し、田村転々を「白桃賞」として顕彰させていただく。

 二席
 佐藤研哉「だんだん」。
 冬木立どれも禁帯出である
 「禁帯出」は、図書館という座標において有効な認識である。「冬木立」という屋外の存在と「禁帯出」の座標とが結び付けられていることによって、読者に混乱がもたらされる。混乱は、秩序回復への契機でもある。読者はどうにかして意味の回路を求めようと自己の思念の配置転換を開始する。その過程で、個別の人間の恣意をはねつけるような厳粛さとでもいうような「冬木立」の印象そのものへと読者を導こうとしているようである。これは、画像としての写生ではなく、自己内に発生する感覚を対象とした写生だということができるかもしれない。
 知的な作用によって言葉を構成する、その手捌きの力量よ。それが機能するのは、意味回路の配置転換として読者を引き込むことができる作品になっていればこそ。
 見学者居る極月の歯科治療
 無防備なままに口腔という秘部が曝露されている状況に、「極月」という言葉のどん詰まり感やらハレの気配が添えられている。その匙加減もまた読者の意識へと刺激を与える。
 共感によって読者とつながるような作品も味わい深い。〈年の夜のブルーレットを抜ける水〉 「ブルーレット」を水が通過するのは「年の夜」ばかりではないが、年が改まる感覚が広く共有されているからこそ、わかる、という読後感がもたらされる。〈嗅がせあう珈琲館の福袋〉 「珈琲館」という固有名詞があるからこそ、「嗅がせあう」主体である人々の姿を想起しやすくなる。
 ただし、共感のリンクを機能させるためには、あくまでも現実的な回路をキープすることが必要条件となる。〈ダイソーの凧に拐われそうな君〉 「ダイソー」という固有名詞の階層に対して、「凧に拐われそうな」という空想は、共感を生むことが望めないようなウソとして働いてしまう。知的な回路を刺激する飛躍も見届けにくい。〈一人称ヒトより多くおぼえて蝶〉 「ヒト」というカタカナ表記は、生物種としての区分を暗示する。「蝶」と「ヒト」との想像の回路に特定の条理が示されていることが、作品の魅力をアップさせているとは言い難いのではないか。
 佐藤研哉の知的力量は、素晴らしい。その鋭利さを疑うものではない。であるからこそ、読者との回路を検証することも可能なのではないかとも思う。白桃賞として評価しようと思いつつも二席とさせていただいたのは、今後さらに素晴らしい展開を示してくれることを信じているからに他ならない。 
 
 三席
 宮下ぼしゅん「うどん屋の」
 人参と思うしっぽくうどんのぽ
 手堅い。わかりやすい。
 「うどん屋」をめぐる連作。そこに描かれているのは、「うどん」そのものというよりは、世俗的な認識の様々な場面。読者が共感できると想定される事項をわかるように取り出してくる、その手捌きこそが、俳句を書かせる動機になっているようでもある。素材を絞りつつ、そのような志向において二〇句を連作として書き上げるのは、簡単なことではない。
 現実の体験を背景にした報告としての連作も、大切な価値を持つ。しかし、それは、描き出された内容の尊さがそのまま大切さとして最前面に押し出されがちである。一方で、どうということのない素材や体験を、さも読者自身が体験したかのようにさりげなく書くことは、作者の創作と読者の読解とが邂逅する俳句形式ならではの存在感を強調するようにも思える。
 さて、そんな中での異色の一句。
 「しっぽくうどんのぽ」という着眼は、食品としてではなく、「しっぽくうどん」という言葉に注目していることを示している。概念としての言葉ではなく、発音という身体活動を通じての言葉だ。その身体感覚の世俗的な地平線がありながらも、「ぽ」へのこだわりは、作者の内面的な価値観を、読者との共感より優先させているような印象をもたらす。読者を置き去りにするならば、一気に鋭く突き放す。そういう決意であるかのように「人参と思う」。
 この一句が加えられることで、連作「うどん屋の」に、妙なコクが発生したように思う。異物と言えば異物だが、俳句を言葉として捉えている作者の顔をあえて露出させているような趣さえ漂う。
 連作をまとめる手堅さと共に、こうした作品を忍び込ませるしたたかさに共感した。
       *

 困らせているオリオンをなぞる目で
             花島照子

 このオリオンは、星座。ともあれ、これは、夜空にある星座ではない。
 誰かを見ている。じっくりと見ている。
その視線で、相手がドギマギしている。
 どんなふうに見ているのか。その視線の動きを「オリオンをなぞる目」と表現しているのだろう。
 ひとつの星を点として認識し、点と点との間に線分を引く。線分は、実際の星々の世界には引かれていない。意識の中で引かれる直線だ。相手の身体の上に点(星)を見定め、勝手に線で結ぶ。相手からは見えない線分を、こちらはしっかりと見ている。
 視線の一方通行。それが個の内面から照射されていること。その暴力性がシンプルに提示されている。オリオン座というわかりやすい星座によって、読者は自己の体験であるかのように、この句の内容を想像する。そして、想像することができた読者は、さりげなく、この暴力の共犯者のような位置に立たされる。
 〈人参のなかに輪のありそれを断つ
 着眼の面白さ。事物を対象としながらも、描き出そうとしているのは人間の思念。

 ダーツ大好きてぶくろの裏が無理
          郡司和斗+中矢温 

 連作の冒頭には「一音ずつ交互に詠み継ぐ詠み人知らずといふものを、吾らもしてみむとてするなり」との詞書が添えられている。二人が一音ずつ交互に詠むという行為が具体的にどのような進められ方をしたのかはわからない。ともあれ、その試みには、うまくいくかどうかは別として、俳句における作者の固有性とはなにかという問題提起を汲み取ることはできるだろう。その問題提起の奥行きは、俳諧連歌の作法に求めることもできよう。またAI社会における個人の立ち位置などを視野に入れれば、現代的な状況への実験的なアプローチとして評価することも可能だろう。
 気になるのは、作家の中における読者の役割である。作者という表出機能よりは、内なる読者という制御機能によってこそ、書かれた言葉は句として洗練される。他者の視点を持つことで作品のわかりやすさを担保するとともに、個人の内面を程よく偏らせることによって作品にオリジナリティーのようなものを寄りつかせる。そのバランスが俳句作品の鑑賞しどころでもある。ちなみに、読者が複数になり、かつ、それぞれがそれぞれに配慮しあうならば、作品のオリジナリティーというか、コクというか、つまり、面白みのようなものが薄まる傾向があるように思う。
 郡司+中矢の関係がどのようなものかはわからない。漢字を当てはめたり、どこにキレを見出すかを検討したり、話し合いでもしたのだろうか。いずれにせよ、仕上げの段階で二人がどのように決断をしていったのか、そこに興味がある。
 とりあえず投げる。的に刺さった姿をみて、その刺さり具合を評価する。そんな営みである「ダーツ」。それを、二人の試みへのメタ的な表現であると仮定するならば、「てぶくろの裏」とは、他者から見えにくい個人の内面の喩のようでもある。

 美術館らしさ初春の雲らしさ
                岡 一夏

 美とは、多様なものである。人がそれぞれ異なる感覚を持っていると考える限り、人の数だけ美は見出され、時とともに変化する。一方で、これぞ美であるという典型性を求めるのも人間である。美意識という個の感覚を他者と共有することで、自らの感覚を許し育み相対化する傾向がある。美意識の成長は、典型性を経由する精神の動き、いわば美の社会性とでもいうようなふるまいによってもたらされると考えることができよう。
 美において一定の典型性を見出しうる対象を提示するのを美術館の役割であると捉えるならば、「美術館らしさ」の内容に少しはアプローチできるだろうか。
 掲句においては、「美術館らしさ」と「初春の雲」とが並列的に提示されている。ここに示されているのは、「美術館」と「雲」との視覚的な対比ではないだろう。美の典型を展示する存在感に対して、
〈いかにも初春〉と私たちが受け取りがちである季の典型とを並べているのだろう。
 写生という方法を視覚への依存として捉える考え方がある。それはそれで突き詰めていけば良い。しかし、その果てに得られるものは、写真や絵画に対しての予備的な立場でしかないのではないだろうか。俳句が文学である限り、人間の内面への視座を失ってはならない。内面的な気づきをそのままに書き記すのは、文芸として未熟な結果となるだろう。他者との共有できる水脈を探り当て、いかにも視覚による写生をしているように見せながら、人間としての価値観を反映させるところに、俳句でなければ辿り着けない香気が生まれるのではないか。
 掲句には、俳句に対する批評、美に対する批評が込められているように思う。そして、それを俳句として仕立てる配慮が働いていると思う。 

 アイスコーヒーくゆらせるみたいにおばけでしたって教えろよ
            ちねんひなた

 アイスコーヒーに、ミルク。黒い液体に、白い広がり。コップという限定された空間に、意識することもない手つきで入れた物体により、炎のような形状が下向きに展開される。
 日常的で限定的で無意識の範囲。その領域において、非日常的で彼岸的で強い刺激をもたらすものを提示してみせろ、と要求するのが、掲句の主旨であろうか。
 俳句そのものを〈日常的で限定的で無意識の範囲の事象を取り扱うふるまい〉として捉えるならば、定型を壊してみようとする掲句の工夫そのものが、句が示す要求に対する実践
でもあるようにも読める。「教えろよ」という問いかけは、特定の他者ではなく、俳句に向かい合う自己に対して発せられたものではないか、とも。
 典型的な俳句から遠ざかろうとする姿勢を〈前衛〉とくくりたがる傾向があるが、それは、表現の表層をたまたま指摘しただけの論評に過ぎない。ちねんひなたが試みているのは、表面上の前衛への擬態ではなく、俳句とは何かという命題に基づく自己との対話なのではないだろうか。

 春の湖こにんげんあそぶおやにんげん
   伊東らぶ

 親子が湖畔で遊んでいる。それを「こにんげんあそぶおやにんげん」と表現している。まるで、親犬が子犬と遊んでいるよ、とでもいうように。
 人間である作者が、対象をあえて「にんげん」と表現することで、それしかないと思っていた世界から異なる見方をしたことで捉えられる世界が剥がれていくような感覚がもたらされる。いわゆる相対化だ。
 その果てに、もう一度、「春の湖」に出会う。その時の風景は、季語的な情報でもなく、画像検索によって得られるような匿名の視覚情報でもない。読者の中に発生した相対化による違和感を視座とする文学的な風景である。
 上から読んでゆく。読み終わって、あたまに戻る。戻ってから、再び出会う上五のフレーズ。そこに、最初に読んだ時と異なる趣を感じさせるのが、俳句形式が内包している詩的作用の一つである。掲句では、中七・下五における視座の揺らぎが、単なる叙景を超えた効果を上五に与えているようだ。

 円錐新鋭作品賞に、多くのご応募をいただいた。
 八十七件のご応募。一七〇〇句を上回る作品。そのどれにも、作者の思索とエネルギーとが込められている。全ての作品に、そして全ての作者に感謝と敬意を捧げたい。
 作者の内面の忠実なる告白を〈純粋〉として評価する傾向が、日本の文学には横たわっている。読者の受け取り方を想定して自己の表現を工夫する俳句は、純文学とは言い難いという考えも、その傾きから発生する。俳句とは〈不純〉だということなのだろう。
 いいじゃないか。俳句は、俳句だ。
 他者に読まれることで、多様な魅力を解き放つのが、俳句だ。純粋になるあまりに不寛容を貫くくらいなら、自らに他者の異質な視点を取り込むことで作品の可能性に寛容になる方が、わたしにとっては居心地が良い。
 円錐新鋭作品賞における評価が、他者からの複数の視座によって導かれる多様性であることを願っている。そして、内なる読者を磨き上げることで、俳句作品の魅力が、より多く、より豊かに解き放たれることを、全ての作者の上に、そして、自らの上に訪れることを祈ってやまない。