「書き続けるという約束」 赤羽根めぐみ

選評 第10回円錐新鋭作品賞

 この度、僭越ながら、第十回円錐新鋭作品賞の選者をつとめさせていただきました。渾身の八七作品に感動と感謝。心より御礼申し上げます。
 選考にあたって、重視したことが二つあります。
 一つは、一句めの句の出来具合です。大抵の人が、作品を一句めから読み始めると思うのですが、その入り口でどのように読み手を迎えるかはかなり大事なことだと思います。
 二つめは、表題および表題句について。一句単独での出来ばえに加えて、二十句作品の世界を支え得る力がある句であるかを見ました。実際に、選考を終えてみると、推したいと思った作品はどれも表題句に惹かれるものがありました。
 ただ、二十句全てが百点満点である必要はないと思います。九十点の句も六十五点の句もあって、どれも自分です。隣り合うことで、お互いの良さを引き出せる配置は無限にあり、それをどれだけ考えられるか。書き続けるということは、自分のことを信じてあげて、その可能性を諦めないことではないかと考えます。
 今回、私の推薦第一席を「灰雪賞」と名付けました。渾身の八七作品を読むということは、降りしきる雪の中に立ち続けるようなものではないかと思ったからです。「灰雪」とは舞うように降り、白さとともに、光が当たると灰色にも見える雪のこと。誰もが宿命的に抱えているものとどう向き合ったのか、私なりに光を当ててみたいという思いで八七作品を読ませていただきました。

 前書きが長くなりましたが、第一席・灰雪賞に推したのは、植田遥大氏の二十句作品「がら空き」です。

 行きずりのかまきりにがら空きの腋
             植田 遥大

 表題句。かまきりの体の写生ですが、不思議な味わいのある一句です。かまきりといえば、逆三角形の小顔に、死神の鎌の如き前足をふりあげる姿。もし自分が小さな虫だったら、絶対に出会いたくない相手でしょう。たとえ「行きずり」だとしても。しかし、作者は出会ってしまったのです。怖い怖い。でも、あれ?あんなに脇が甘いのか?と気づきます。だったら勝機があるかもしれないと。かまきりの脇の下を「腋」とまで言ったのは、緊張する相手との遭遇の場面での自分自身の体の反応。相手に無防備な部分を見つけつつも、だからと言って自分も完璧ではないのです。「空っぽ」ではなく「がら空き」、「脇」ではなく「腋」だから、景がぼやけることなく、臨戦体勢の緊張感が伝わってきます。それは、「いきずりのかまきりにがらあきのわき」と、「き」を含む「i」の音の多用にも表れています。同時に、「a」の音が心身の柔らかい部分もイメージさせ、「i」と「a」の響き合いがまさに生き物なんだなあと感じました。相手はただの小さいかまきりなのに、それなのにと、かまきりの後ろにいる見えないものに、読み手も思わず呟いてしまった一句でした。
 今回の選考では、なんとなく自分はきっちり有季定型の句ばかりで編まれた二十句を選ぶのだろうと思っていました。ところが「がら空き」二十句はそうではなかったのですが、単に有季定型ではない、ではなかったのです。表題句を見れば、その力量がわかるように、有季定型を既に十分に自分のものにされている方であるとお見受けしました。そして、その先には、もうただただ言葉とは音楽なんだと実感させられました。当然、生きるということは、いいことばかりではなく、辛い出来事や怒りの感情なども日々生まれます。それらと向き合い、もがきながら、深いところから発信しようとしている。日々の発見(という音楽)をあなたにもきいてもらいたいんだという声が聞こえてくる、そんな作品に出会えてよかったと心から思いました。

 第二席には和邇鰭次氏の二十句作品「将棋倒し」を推しました。選考にあたり、一句めの句の出来具合を見ると先に書きましたが、実は頭の三句と最後の三句に頗る良い句を並べているかというところも注意して見ていました。「将棋倒し」二十句は、その三句・三句(表題句含む)が優れているのに加えて、二十句にばらつきがなく、最後まで読ませる構成力がある作品であると評価しました。

 あまりたる牛脂とバレンタインの日
             和邇 鰭次

 一句めに置かれた、大胆かつ繊細な一句。バレンタインデーといえばチョコレート。一見、牛脂とは関係ないように見えますが、脂つながりであったり、色味であったりと、絶妙な距離での取り合わせに成功しています。可愛らしさもある、大人のバレンタインの一句に仕上がっていると思います。
 同じ作者で面白いと思ったのが、〈ひそひそと外す彼岸の電球を〉〈きしきしと紙魚鳴く鉄道資料館〉〈しりしりと疼く関節芒原〉の句群。「ひそひそと」「きしきしと」「しりしりと」に動詞で始まる句が二十句中に三句は、人によっては多いのでは?と思うかもしれませんが、それがそれぞれ一句の肝として機能しているのが大変見事だと感心しました。

 第三席に推したのは、平良嘉列乙氏の二十句作品「遺影」でした。

 食堂に犬の遺影や秋の雨
             平良嘉列乙

 この表題句は、チーム「遺影」二十句の主将のような存在だと思いました。この表題句だから推したいと思うほど心惹かれた一句です。
 実際に、犬や猫などの遺影の句は既にいくつも詠まれていると思うのですが、この句が優れているのは、まず「食堂に」としたことで効率的に場面設定をしている点です。家族同然に可愛がっていた犬の遺影を飾るのであれば、大抵は一家の団欒の場であるリビングルームでしょう。それが「食堂」だというのは、この犬が飼われていたのが、一般家庭ではなく、食堂経営か、あるいは食堂を持つ会社や公共施設だったことを想像させます。「食堂に」と言っても、生前は食堂内に居たわけではなく、出入りの際に目につき、声をかけられる場所にいつも居たのでしょう。不特定多数の訪れる場所で、癒しの存在として、誰からも愛されて可愛がられていた姿が目に浮かびます。季語「秋の雨」の暗くて肌寒さを感じる中で、「遺影」の飾られた付近だけがぽっと小さく灯っている。心が静かになる一枚の絵をもらったような一句でした。
 「がら空き」「将棋倒し」「遺影」、全く違うタイプの三作品に魅了されました。今後の作品にも大いに期待。これからも意欲的に書き続けてくださることを切に願います。

 以下、こころ惹かれた一句です。表題句にいい句が多いというのは、全体構成が見えているということ。今回、作家としての心構えと意識の高さを全体的に感じました。

 麦笛や冒険譚のドッグイア
            押見げばげば

 表題句。「ドッグイア」とは、本や雑誌などのページの角の部分を折り曲げることによって、栞代わりに活用すること。誰でも普段よくすることなので「ドッグイア」の句は星の数ほど詠まれてきたことと思いますが、この句では「ドッグイア」を「冒険譚」に施し、さらに「麦笛」で活き活きと表現しています。「冒険譚」というのが、凝っていて古風な言い回しですが、古さを感じさせず、紙のよさを再認識させてくれました。単に本の内容と「ドッグイア」なのではなく、このデジタル全盛の今に、紙に触ることがどんなに心躍ることかとまで言えているのが素敵でした。

 カリフラワーライス良い霊になりたい
          岡 一夏

 表題句。「カリフラワーライス」と「霊」の取り合わせがユニークです。「カリフラワーライス」とは、カリフラワーを米粒状に刻んだもの。ヘルシーでクセのない味わいなので、ダイエット中の食事にお米代わりに取り入れられているとのこと。この句の面白さは、健康で生き続けるためにカリフラワーライスを摂取しているのに、心は死後を見ているところです。私は「良い霊になりたい」と願ったことは無いけれど、そう言われると「良い霊になりたい」と思わせられました。おそらく作者には、先に自分が亡くなったあとも、ずっと傍にいたい人がいるのでしょう。「良い霊」つまりいい子でいるから、あなたの傍にいさせてほしいという初々しさが、とても好きな一句でした。

 譜面台全て並べてあとは雪
             石﨑 智紀

 表題句が殊に素晴らしく、この句が表題句である意味がなんと大きいことだろうと、幻の第四席と呼びたい作品でした。
 一句単独の世界で読むならば、この「譜面台」は物としてそこにあり、演奏に必要な、ありとあらゆるものもスタンバイ済みですということかと。私は一読してオーケストラを想像しましたが、例えばピアノに向かう一人のピアニストでもいいのかなと思いました。「全て並べて」は目に見える楽譜や人間の数に限らず、演者の心の内や背負っているものまでも含まれると思うからです。「全て私はやり尽くしました」という、いろいろな気持ちの混じる静寂、そして雪を待つこころ。
 一句だけを読むならば、ここまでだと思うのですが、表題句という役割でこの句を見ると、この二十句が「譜面台」だったのだと気づきます。この二十句に打ち込んだ作者の気持ちが「全て並べて」であると。この表題句を二十句めに置くか、十八句めに置くかは迷ったと思いますが、あえて余裕を残した十八句めでよかったのではないでしょうか。
 他にも〈太陽を見てはいけない冬菫〉〈白菜くたくた揚子江気団〉〈裏側に煉獄の立つ野焼きかな〉など、作者の俳句に真摯に向かう姿勢に好感を覚えました。

 万歳のやめどきの無く台風来
              牧野 冴

 表題句。この表題句も全体に影響している一句だと思うのですが、「やめどき」という言葉が言ってしまっているように、この「やめどき」を苗床に発芽したのが二十句作品「やめどき」なのではないかと読みました。
 日常のたわいのないことにもいちいち絡みついている「やめどき」。でも、一体私は何をやめたいのだろう??むかしの、こんなにも情報が氾濫していなかった頃ならば、案外あっさり答えにいきついていたと思えるのですが、答えを探してアクセスしたインターネットで「万歳」していれば、なんとなく自分も「万歳」してしまっている時代。でも、そのむかしだって、「万歳、万歳」と言ってから戦争に行ったのだから、本質的には変わっていないのかなとも。
 実際には、台風シーズン中の選挙の景を詠まれたものかもしれませんが、無関心とか流されやすいままでいたら、もっと大きなものに呑まれてしまうという、時代への警鐘のような一句です。

 夢に置きざりの梯子へ春の雪
             中山 奈々

 パズルのピースを埋めていくように、「追悼」二十句を読ませていただきました。前に進もうとするけれど、進む勢いとかどこまで進んでいいのか加減がうまくいかなくて、結局一切を引いてしまう姿を想像しました。

 ぐうの音も出ない薄氷踏んでから
 いかなごの話いっさいせず笑う
 きっちりと恨んで啜る蜆汁
 一個だけ鉛筆で刺す春の星

 亡くなられた方とは約束があって、それを作者は苦しい日々の中でも忘れなかったというのが「夢に置きざりの梯子へ」だと思うのです。下ばかり見ていた人に上を向かせた「梯子」と「春の雪」。言葉の力と書き続ける人を信じたいです。