選評 第8回円錐新鋭作品賞
まずは、感謝のメッセージを。
応募してくださった方々に。募集情報を拡散して、円錐新鋭作品賞の運営を支援してくださった方々に。
そして、特別審査員をおひきうけくださった小林恭二さんに。
みなさん、ありがとう。
小林恭二さん、ありがとう。
白桃賞
青木ともじ「篝」。
目で追うて木目短き暮春かな
ことがらとすれば、命の痕跡でもある「木目」のあっけなさと「暮春」との共鳴。およそ、そこに詩情が託されていると読むところ。
それは、そうと。
作者は、着眼したことがらを着眼のままに書く行為への警戒心を持っているようだ。その姿勢にこそ、惹かれるところがあった。
「目で追うて」。これは、書かなくても良いこととされそうな措辞だ。「木目短き暮春」で、十分に意味は伝わっている。しかし、意味を意味のままにしておくのではなく、読者が身体を通じて体験できるような筋道をつけるという点においては、「目で追うて」は有効技。「見てみれば」などではなく「目で追うて」という語を選んだことで、視覚と触覚との交感も余韻として漂うこととなる。
湯の柚子を遊ぶほかにも用ゐる手
「ほかにも用ゐる」というやんわりとした俗事を連ねることによって、「柚子を遊ぶ」営みの聖性を浮かび上がらせる。あえて具体的な書き込みを控えることで、一点へと読者を向かわせるところに俳句的技巧がある。
二人して人参買うて来てしまふ
「買うて来てしまふ」の、ほどよさ。「買うて来たりけり」と見栄を切ったら、「二人」の関係の日常性が吹き飛ばされてしまっていたかもしれない。「人参」のほどよさ。
ラジオから鯨を追へる人のこと
鯨を追う人と自分との距離。それは、非日常と日常の距離。遥かなる非日常が生活空間の小さな道具からこぼれてくる。あえて「ラジオから流れる」などという状況説明を省く手さばき。これも、ほどよい。
俳句としての「ほどよさ」は、作者であると同時に、読者としての視点を鍛えている作家であることが想起された。
読み終えて感銘を受けてから、作家名を確認。青木ともじ、とある。第七回円錐新鋭作品賞において、澤好摩が二席として評価していた作家なのであった。
今回の作品を、澤さんに読ませたかった。澤さんと山田は選出する作家が重ならないことばかりだったけれど、今回は例外になっていたかもしれない。
二席
本多遊子「永遠の三」。
鉄板のげそ立ち上がる義士祭
「立ち上がる」を介して不思議な回路が生まれてしまっている「げそ」と「義士」。「祭」と「鉄板」の相性の良さがしたたかに句を支えている。モノやコトの日常的な顔つきの奥に、名付けられないような感情の回路を配線するのが、俳句ならではの面白み。そんな面白みに富む作品が並ぶ。
春深し骨凭れ合ふラムチョップ
街溽暑あんこ禿げたる串団子
食べ物の句が、いい。(季語+状況+食品)という同じ構造なのだけれど、それぞれに、それぞれの味わい。
「大柄なをとこと暮らし独活捌く」(ウドの大木)「斑猫や口で説明できぬ道」(斑猫には「道教え」の異名あり)、この辺り、意味の焦点が一点に注がれてしまって、俳句作品としての香気が後退してしまっているようで惜しまれた。
収縮をしさうな枇杷の黒き尻
およそ一般的には許容され難いような発見。それでも、見えてしまっているものを書く。輪郭を持つことなきままの発見を書きつける形式としても、俳句は機能し続けるであろう。作者の独自な突っ走りぶりをもっと見たい気持ちになる。
三席
山本たくみ「着席せよ」。
ストーブに飽きし者より着席せよ
一読、渡邊白泉の「玉音を理解せし者前に出よ」を思い出した。いうまでもなく、白泉の作品における「玉音を理解せし者」という内容の重みは、「ストーブに飽きし者」と比べるところではない。ともあれ、であるからこそ、「支那事変群作」あたりを想起しながら読み、〈俳句が現実世界に接する際の手さばき〉について今更ながら考え直す契機となった。
給食のこれを松茸飯と言ひ
フラスコの微かに揺るる運動会
主観を抑制しながらも、それとなくユーモアをしのばせること。世界の大きさを部分のありようで汲み取ること。こうした手さばきは、俳句や川柳ならではのものと言えるかもしれない(現代の川柳が遠ざかろうとしているものかもしれないけれど)。戦争であれ教育現場であれ、その手さばきは、一定の機能を果たす。変化し続ける社会において、こうした作品を書き上げる作者の行方に心惹かれる。
聖歌たからか自販機に白湯がない 山田すずめ
自販機のディスプレイにに、ドリンクたちがずらり。背景から光を受けて輝いている。その姿と聖歌隊の姿とが重なる視点は、俳句ならでは。「白湯」の不在は、たからかに歌われる聖歌に対する〈俗〉の位置を示しているようだ。これは、そのまま俳句に対する作者の鋭い感覚を表現している。
凍鶴はねぢれ知恵の輪はじけ飛ぶ 佐藤研哉
〈厳寒の中の鶴の印象をいう。風雪に耐えながら自らの翼に首をうずめて片脚で立っている鶴は、まさに凍てついてしまったかのようである〉。これは、季語「凍鶴」の説明。凍えているという点に心寄せをすれば、人間の心情を重ね合わせるような書きぶりになるところであろう。しかし、その形状にのみ即物的に注目していて「ねぢれ」。人事としての意味から解放された圧力めいて、同じようにねじれからまっている形状の「知恵の輪」が弾け飛んでいる。日常的な論理では発生しないような回路が生まれている。意味の世界の召喚に応じもせずに、その回路を句として書き留めた行為に強い共感を覚える。
頬杖の杖を剥がして割る焼酎 かくた
頬杖をついている。そのままでは、次の一杯をこしらえることができない。
仕方がないなぁ。
こんなドヨンとした気分を、「頬杖の杖を剥がして」と表現したことに驚いた。「剥がして」という言い回しに、〈仕方がないなぁ〉感が滲み出ている。
こんな気分を書き留めることに何の意味があるのかという考え方もあるだろうが、言葉としての骨組みが与えられることで、意味を超えた価値が漂いはじめる。そして、こうやって価値を発生させる言葉を重ねていくことで、俳句という文芸の奥行きが、また、少しふくらむことになるのだろう。
生牡蠣や住所氏名の字をくづす クズウジュンイチ
住所氏名を書く機会がある。それは、おおむね、他者に読み取られることを前提にしている。手元のメモ書きとは、趣を異にするのだ。
他者の目に触れる「住所氏名の字」を崩す。それは、他者への配慮をやめてしまったわけではないけれど、と同時に、自分の美意識やら生理的な癖やらにくつろぎを与えるような行為である。
自分を、許す。世界とは、やんわりと繋がりながら。生牡蠣を食べることにも、また、そのような趣がある。
切字の「や」に対応するべく、下五の「字をくづし」と連用形にしてしまいそうなところだが、それでは、字を崩したのちに生牡蠣を食す、というような時系列が発生してしまいかねない。それでは、あまり面白くない。掲句の表現にさりげなくとどめたところに共感したことも申し添えておく。
磔の女滝受肉未遂の咎 日月連
作家名は「たちもり・れん」と読む。
実のところ、「受肉未遂の咎」という表現は、俳句的には何も伝えてこない。確かに読めば意味はわかる。意味がわかるということと、俳句ならではの価値を形成することとは、質が異なる。
ともあれ。
これは、凍った滝のことを描いているのかもしれない。完全に凍結していれば滝は「受肉」して屹立していたであろうに、凍っているところに水が流れて、どうにもおどろおどろしい様子になっている。生と死、命と物体の境界面にあるような様子を、「磔」としたのだとも読める。「女」という言葉も、滝のサイズや佇まいを暗示させるだけでなく、江戸期の責絵めく猟奇的な気配を煽るのに役立っているのであろう。
それにしても。
「咎」は、饒舌。これは作者が押し付けた意味であって、俳句としての面白みを削ぐ言葉となっている。
そもそも、「磔」そのものは、滝の様子の〈見立て〉。その〈見立て〉、つまり作者の中に発生した連想は、「うむ、なるほど」と読者が受信してこそ表現として成立する。本来は主従の従である〈見立て〉が、主たる実景を押しのけて意味を強めると、俳句表現は失速する。
では、あるが。
ここは、新鋭作品が集うところ。
作者が自らの表現に革新を求め、多くの方法を試みることに、日月氏の作品を掲げつつ、あらためて敬意を捧げたい。
澤好摩は「新鋭、三日見ざれば刮目して待て」と口にしていた。チャレンジの向こうにある新しい表現は、まだ、書かれていない。その未だ書かれざる作品のためにこの賞が寄与できれば幸甚の極みである。