小林恭二 荒野に咲く花々

選評 第8回円錐新鋭作品賞

 まずはご応募してくださった七二名の方に感謝申し上げます。一句や二句の応募ならいざ知らず二〇句まとめて応募するには、まず作品のコンセプトを定めねばならず、それだけで大変な仕事となります。しかも未発表作品となれば、いわばぶっつけ本番で送らねばならず、その不安たるや大変なものだったと思います。今回読ませていただいた応募作はどれも熟考のあとが滲んだものばかりで、選句担当者としてもうならされる思いでした。
 その中から入賞三作、入選句五句を選んだわけですが、文字通り泣く泣く落した句が多くありました。それらはほとんど寸毫の差であり、敢えてい大げさにいうなら、あらためて選の怖さを思い知らされました。

 その中で第一位荒野賞にいただいたのは佐々木歩さんの「たましひの器」でした。

 腫瘍から焚火の音がしてをりぬ

 普通に考えて、腫瘍から焚火の音がすることはありえない。しかしでは腫瘍はまったく無音かというと多分そうじゃない。ごく小さいでしょうが、腫瘍の中では炎症が起こり、それを消し止めようと白血球が集まり、それに対して病変部分が更に炎症を起こすといったことが延々行われている。それはまさしく焚火が燃えるような現象なのでしょう。
 もちろん、作者がこんな理屈をいちいち考えて「焚火の音」と表現したのではないと思います。作者は直感をもってそう表現した。それが読者の心に波紋を広げミクロの世界での焚火を幻視幻聴させたのです。ちょっと類想をみない世界であり、記憶に残る句でした。

 溺れたら人に生まれる冬銀河

 シチュエーションが面白い句です。「溺れたら人に生まれる」ということは、主体は人ではないということになります。では何者か。そもそも銀河に溺れるというのですから、生物でもありますまい。連作のタイトルから想像するにそれは「たましひ」、それも戻るべき肉体を失い、冬の銀河をさまよっているたましいということになろうかと思われます。
 ただそうやって馬鹿正直にシチュエーションを追った後で戻ってくるのは、冬銀河をみつめている作者の姿です。作者はイメージの中でたましいとなって肉体を離脱し、冬銀河に溺れる自分を想像している。その際、自分が人間であることも忘れてしまっている。
 全体的な感想としていうなら、作者は人でありながらそれを実感できない自分を感じており、あの冬銀河に溺れたらまっとうな人になれるのかもと思っている。
 そうした哀切さがわたしの好みでした。

 花婿がをるかもしれぬ凍土掘る

 マンモスじゃあるまいし、花婿が凍土の中に埋まっているはずがない。でも作者は「をるかもしれぬ」といっている。この花婿は作者と出会うために何万年も前に永久凍土の中に転落して作者を待っていたのでしょう。これもまた哀切な印象があります。わたしはアンナ・カヴァンの「氷」を思い出しました。
 他に印象に残った句としては「鮟鱇にする祈らねばならぬなら」「手毬唄からだの底に何かある」がありました。

 この「たましひの器」と最後まで争ったのが涼野海音さんの「雪女」でした。わたしが注目したのは、

 ピッチングマシーンの音冬に入る

 でした。今回全応募作一四四〇句中おそらくいちばん好きな句でした。
 ピッチングマシーンというのは、バッティングセンターなどにあるボールを投げる機械だと思います。あの機械って、娯楽用のものであるにもかかわらず、存在のあり方がひどく非情で、おそろしげなものです。それに着目したのは北野たけし監督、『アウトレイジ・ビヨンド』ではピッチングマシーンに殺される若頭を描きましたし、『最終章』でもバッティングセンターは無法地帯のように扱われてました。
 おそらく実景からこの句を詠んだのでしょうが、無機的な暴力に対する直感的理解が底にあるような気がしました。

 頂を隠す白雲西郷忌

 西郷隆盛というのは、実に茫漠とした人物で、この人を理解するのは至難に近い。ただ古今の政治思想家は最終的に西郷にゆきつくようなところがあって、たとえば新左翼の理論家として名高い橋川文三も晩年は西郷研究に没頭していました。
 ここに登場する「頂」は桜島のそれだと解釈しました。あの雄大な桜島の山頂を雲がかくしている。西郷の思想体系を何かが見えなくしている、という読みは理屈っぽすぎて面白くないかもしれませんが、頂を西郷の正体だとすると、それなりにつじつまがあいます。
 あと「炎昼の磐座を翔つ大鴉」「蟻食の舌長々と大暑かな」の成熟した写生の腕前に舌をまきました。全体に安心して読めた連作でした。

 三位としていただいたのは内野義悠さんの「薬効」です。

 舌禍はや忘れ車窓をすべる雪

 「舌禍問題」というと政治家だと相場が決ってますが、どっこい我々だって四六時中舌禍をしでかしています。酒を飲んでの舌禍は定番中の定番ですが、何かの拍子に出たことばで人に深く恨まれたり、いわずもがなのことばを口にして訂正に四苦八苦するのは日常茶飯事です。
 その舌禍をはやくも忘れ車窓をすべる雪を見ているのだという。「はや忘れ」とありますが、完全に忘れたわけではなく、車窓をすべる雪の動きの面白さに気をとられ、一瞬忘れたのでしょう。「何事もたいへんですなあ、ご同輩」と思わず声をかけたくなるような、そんな句でした。

 瀬音まづ朝寝の身ぬち明るくす

 舌禍の句が人生の実感を苦く述べた句だとすれば、こちらは作者の技術の確かさを感じさせてくれる句です。こうした感慨句を隙なく作れるのは、相当な手練れです。

 薬効のするどく小鳥だけは来る

 よく効く薬とか、ゆっくり効く薬という表現はありますが、するどく効く薬という表現は聞いたことがありません。どういう効き方をしたか知りませんが、何かまがまがしいものを感じます。実際、作者もそれを喜んではいない。せめてもの慰めとして「小鳥だけは来る」といってますが、おそらく副作用もあるのでしょう。全体に人生に対する苦闘が垣間見えた連作でした。
 他の注目句としては「脈拍をふたつ飛ばしに梅ふふむ」「夜伽せむまなじりに遠火事を留め」がありました。

 次に入選作以外で注目した句を五句あげます。

 新聞紙すらりと割いて焼藷屋

 播磨陽子さん「うかうかと」より。一読、膝を打った句でした。確かに新聞紙というのは、うまい人が割くと「すらりと」割けるものです。焼藷屋もさもありなんと思わせられる。「天使群れてゐるではないかシクラメン」も好きでした。ことばの並べ方に「官能的」とでも呼びたいセンスがあると思いました。

 墓参りスプーン曲げられる叔父と

 三島ちとせさん「白鳥」より。「白鳥」は北国の日常を気負うことなく、しかし詩情豊かに詠んだ好連作で、最後まで入選させるかどうか悩まされた作品でした。「墓参り」の句は一種皮肉なトーンですが、存外作者はこの法螺吹きのおじさんが子供の頃から好きだったのではあるまいか。おおらかなユーモアを感じる句です。他に「書き出しは辞表と同じ神無月」も好きでした。

 風船が押すな押すなと死出の山

 立木司さん「途中」より。実景を写生するのではなく、修辞的なことばの力で勝負する作風の作者ですが、どの句にもほどの良いユーモアが漂っており、懐の深さを感じました。「風船」の句は怖いようでもあり、おかしいようでもありますが、詠んでいるうちに死というのは存外そんなものかもしれないと妙に納得させられました。風船の群れはたましいの群れを指しているのでしょうが、セールに殺到する人々のようでもありました。

 パ ラ イ ソ は ・ 日曜の夜のひと家族

 とみた環さん「うすだいだい」より。書き方に工夫をこらした句ですが、わたしは「パライソは日曜の夜のひと家族」とオーソドックスな叙法に還元して読みました。「パライソ」は季語でありませんが、無季で成立するには弱いと思いましたので、勝手ながら「絵踏み」の外縁句と読みました。作者には不本意かもしれませんが、こうして仕掛けを排除して読むと、かえって穏やかな詩情が現れてきます。そのあたりがとみたさん本来の詩情だとわたしは思いました。

 ころされたぼくの神さまありがとう

 田中目八さん「虹の横顔」より。技術的には発展途上にある人かもしれませんが、一読恐ろしい精神の研ぎ澄まされ方で、ある意味作者が心配になるほどでした。「ころされた」の句は狂気と紙一重にあるような感慨で、よい意味でぞっとさせられました。「そうやって顔をそむけて虹にして」も恐ろしい句ですが「虹にして」に一抹の救いを覚えました。